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自己紹介文

▲ 1964年、アメリカのインディアナ州のリッチモンド生まれ。一歳半くらいで帰国したので、世間でいうところの<バイリンガル>にはなり損ねましたが、アメリカ国籍をもらいかなり長い間二重国籍を持っていました。このことが後に、文化と言葉と国籍との関係を考える基盤となりました。

▲ ミネソタ州のノースフィールドという街で小学校に一年間だけ行きました。このときどういうわけか、アメリカ中西部のアクセントが自分の身体に残りました。この後、英語は忘れてしまったのですが、身体に染みついた、ネイティヴと変わらないアクセントの存在が、逆に<ネイティヴ>とは何なのかという疑問を常に私につきつけることとなりました。

▲ 地元の小学校を出た後、同志社女子中学・高校と進みます。国語は得意科目ではありましたが、結局大学では歴史を勉強しようと決めました。決めた理由は単純。司馬遼太郎の歴史小説が好きだったのです。同志社大学の文化史学科に入ってからようやく、自分が<歴史>と<歴史小説>を混同していたことに気づきました。

▲ 大学卒業後、アメリカのマサチューセッツ州にあるアマースト大学に編入しました。学校で学ぶ<英語>にはあまり興味をもてなかったのですが、<外国語>を話すことによって出てくる不自由さには強烈に惹かれ、「英語を自由に使えるようになること」が人生の目標の一つになってしまうところまでこの言語にコミットすることになりました。

▲ 大学院はミシガン州のミシガン大学に行きました。日本の文学とアメリカの文学を比較するつもりで、比較文学科なるところに行ったのですが、フタを開けてみると、そこは文学理論を専門に勉強する場所。わけもわからず、フーコーやデリダやラカンを毎日読まされ、私が勉強したかった<文学>とこれらがどのように関わるのか、頭に???をいっぱい抱えていた2年間でした。今にして思えば、私はアメリカで脱構築の理論的訓練を受けた最後の世代ということになるのだろうと思います。

▲ この頃、私に決定的な影響をあたえることになった二人の人との出会いがありました。一人は今でも躊躇なく親友と呼べる上田敦子さん、もう一人はどうしても先生をつけなくては名前を呼べない作家の水村美苗さん。上田さんはいわゆる帰国子女で、自分たちが<言葉>に取り巻かれていて、それが自分たちのどうしようもない部分を形成しているのだ、という認識を共有できた数少ない人でした。水村先生は<言葉>で考えるのではなく、<言葉>を通して思考するということを、身をもって教えてくださった方でした。

▲ <理論>責めの比較文学科を修士でさっさと見切りをつけて、日本文学科に移った私でしたが、比較文学科を去ってから本格的に<理論>と向き合うようになりました。博士論文を太宰治で書くことを決めてから日本に帰り、東京大学の小森陽一先生のもとで勉強をさせていただくことになりました。<読む>という行為の持つ可能性を、私は小森先生から学びました。

▲ 博士論文を書きながら就職活動をして、信州大学経済学部に職を得ました。<英語>を教える仕事です。日本の中で<英語>という言語が占めている奇妙な地位について徹底的に考えさせれられた3年間でした。経済学や政治学といった異なる分野にいる人であっても、<言葉>について考えている学者がいるのだなあと知ったのも、この信州大学経済学部でした。

▲ 2002年から早稲田大学国際教育センター、2004年から国際教養学部で、<英語>で<日本文学>について教えるという仕事に就くようになりました。<日本語>を学ぶ外国人留学生や、<英語>を学んで<留学>しようとしている早稲田の学生に日々接する中で、私の<ことば>への思いは尽きるところを知りません。