日記(10月末から11月)
■10月某日
もう少し若いころは人づきあいもかなりとんがっていたが、
中年もだいぶ半ばにさしかかって、
人と一緒にいることを楽しむことが少しできるようになってきたと思う。
ピアノのレッスンの後、
先生と先生のもう一人のお弟子さんであるMさんをお誘いして
神楽坂をご案内がてらランチをする。
こういうことも、昔はあまりなかった。
思い立ったときにしておかないと機会を逃してしまうかもしれない、
という思いがいつもよぎる。
■11月某日
先週の授業で、学生から来週はお休みですよ、と教えてもらった。
あらー、シラバスまたずれちゃうじゃないの、と思いつつ、
思わぬ時間のプレゼントが嬉しい。
雨が今にも降りそうだけど、久しぶりに神田古本市に行こう。
ネットで全国の古本が買えるようになってから、
古本をひやかしに歩くことがなくなってしまった。
お昼前に出て、ついでにボンディの欧風カレーも食べてこよう。
成果は中野重治関連の本を何冊か。
■11月某日
妹がフランスから帰国。
義弟も出て来て3人で鰻を食べに出る。
一時間近く待たされて、鰻が来たときには、
もう3人ものも言わずにむぐむぐ喰う。
その後二人は都内のホテルに向かった。
私は帰って昼寝。
鰻くっちゃったら、午後の仕事は無理だしー。
■11月某日
いつの間にか「大人買い」という妙な日本語が定着したようだが、
作家の全集を買うのはまさに「大人買い」である。
月給取りになって、この快感に目覚めた。
院生の頃はどうしても必要な一冊だけバラで古本屋で買って、
あとは図書館に日参して読むというようなことをせざるを得なかった。
今は有り難いことに(かどうかは実際のところわからぬが)
「あ、その棚、全部いただくわ」ってなことが、
ぽちっとクリックするだけでできる。
というわけで、中野重治全集を取り寄せた。
読み始めてみると、雑文がおもしろい。
随筆などという高尚な名前よりも「雑文」と呼んでしまった方がいいような、
短いエッセイのような文章がおもしろい。
仲間内でアジったりするときの文章は専門用語が多くて楽しめないが、
60年代の講演記録などは、私の今の研究に直接関係ないんだけど、と思いつつも、
つい読んでしまった。
噛み砕いて話さねばならないという場合に、
この人はもっともその言語能力を発揮したのではあるまいか。
わかった風な口をきくことを、この人は絶対にしない。
しゃべった端からそのしゃべった言葉に注釈を加えていくような、
一種独特の語り口。
徹底して自覚的なのに、
そこに自意識過剰を感じさせない落ち着き。
イデオロギーは置いといて(てなことを言うと、中野重治研究者に
叱られてしまいそうなんだけど)書き方が好きだ。
■11月某日
俳優遠藤憲一が好きだというと、
友人が貸してくれた『湯けむりスナイパー』のDVD全4巻。
仕事終わりに少しずつ少しずつ見ている。
数年前NHKの時代劇で見て、いいなあ、と思い、
ネットで検索したらVシネマを中心に活躍しておられる俳優さんであった。
声がいいから、CMや映画の広告のナレーションも多く手がけておられる。
この『湯けむりスナイパー』は深夜枠ながらドラマ初主演である。
めでたい!
深夜枠だし「湯けむり」というくらいだからエロティックなのはお約束としても、
近年のふやけたドラマにはない思い切った場面もあって、
見てるほうもはらはらどきどき。
はーどぼいるどでせくしい、でもなんともいえず、きゅーと。
やっぱ、私も買おかな、DVD。
■11月某日
髪を切りに表参道まで行く。
■11月某日
Twitterなるものを始める。
ブログにも貼付ける。
これでブログの表に2種類の時間が流れることになる。
Twitterでつぶやけるのは140字だから「構成」を考える余地がない。
それが一番の特徴である。
強調されているのはそれが単なる「つぶやき」であり、
聞かれることもあれば、聞かれないこともあるということ。
Mixiのような足跡もコメント欄もないから、
「読まれた証拠」も残らないかわり、
それがないことを嘆くことにもならない。
時間が流れてしまえば残っていかない言葉たち。
それは以前はネガティブであったが(ネット上でコメントされない
ことを悲観して追い込まれて犯罪を犯してしまった人もいた)
Twitterはそれを逆手にとっている。
削除はできるが編集はできないという構成も、
流れて行く時間を意識させる。

