授業の終わり in 大寒
ゼミの話はまだまだ続きますが、
ちょっと閑話休題。
でもこれも授業の話。
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金曜日。
占領期文学の最後の授業を大江健三郎「人間の羊」で締める。
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「戦後」において文学が提示し得ている問題は2つある。
一つ目は「加害者」と「被害者」の問題。
誰が「被害者」で誰が「加害者」か、というのは、
事前に決まっているものではない。
それはどの文脈におかれるか、どのような関係性の中におかれるか、
どのような<ことば>で表現されるのか、によってその時々において決定される。
「加害者」と「被害者」を固定的に扱うことができないだけではなく、
容易に反転可能である。(「人間の羊」を見よ)
注意深く見られるべきは、
「加害者」を「加害者」たらしめている言語環境の働き。
「被害者」を「被害者」たらしめている表現のありよう。
「加害者」「被害者」を所与のものとしないこと。
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二つ目は「沈黙」の問題。
歴史は基本的に「証言」や「文書」といった、
いわゆる<語られたこと>をベースに組み立てられる。
だが文学にとっては<語られなかったこと>が決定的だ。
「沈黙」の重みを積極的に表現できるのが文学の強みである。
もっとも強い苦しみや悲しみは語られない。
そして死者は絶対的に語ることができない。
だから誰かが代弁しなければならない。
だが、代弁するとは代弁するものの解釈行為が、
のっぴきならない形で入り込むということである。
代弁者は必然的に生者である。
生者は必然的に生きた課題を背負っており、
死者は必然的にその課題とは無関係である。
(死とは元来そういうものだ)
この絶望的な深淵をどう架橋するのか。
我々は慎重に吟味しなければならぬ。
戦後文学と呼ばれる領域において、
「沈黙」を扱うとは、死者の解釈を扱うということであり、
代弁者の政治的課題を扱うということである。
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とまあ、こんなようなことをしゃべったのだったが、
果たして私は何人にそれらを感得(理解とはいわない)せしめたか。
ワンクールの授業が終わっても、成果が目に見えるわけではないから、
教えるという仕事は達成感とは無縁である。
だが、まあ、よい。
私は少なくとも彼らに「夏の花」やら「野火」やら「仮面の告白」を
読ませたのである。
それを成果としよう。
とりあえず終わった。
そんな感じである。
あーあーあ、と私は大きくため息をついて、
もう暗くなった大寒の街に出た。
かっこよく言えるほど飲めるわけじゃないけれど、
今日は一人でいっぱい引っ掛けて帰るか。
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