めずらしく映画評(長いよ)
■Freedom Writers (主演ヒラリー・スワンク、監督ラグラベネーズ、2006年の作品)
ロス暴動直後のカリフォルニア・ロングビーチにあるとある高校。
黒人、ラティーノ、アジア系、白人それぞれの人種が小さなグループを作り、お互いに抗争を繰り返している。ドラッグと銃が蔓延するその地区でほとんどの生徒たちは文字通り生き抜くことに必死だ。新米教師のエリンは、教師自身が彼らを見捨てているのを知り、彼らに共に人間らしく生きることを教えようとする。彼女は彼らに一冊のノートを渡す。彼らはそこに自分の物語を書くことで、自分を見つめ直していくだけでなく、お互いを理解しあってゆく・・・
■観るきっかけになったもの
私は基本的に映画というジャンルに対して腰が引けているのだが、
今回見る気になったのは、
私が戦後直後から50年代前半にかけての生活綴方/記録運動に興味を持ち、
『山びこ学校』についての論文を書いたことを知る友人が、
作文教育を題材にした映画としてこれを教えてくれたからであった。
文章を書くこと、それも自分の日常をありのままに綴り、
それを読み合うことによって弱者たちは自分たちの「声」を手に入れ、
連帯の方法を学び、自由のための闘争を開始する。
なるほど、まさしくアメリカ版『山びこ学校』。
かけ声はウツクシク、そして極めてウサンクサイ。
■ウサンクサイこと、その1 <日常をありのままに綴る>ことを、
生徒全員が一冊のノートを渡されただけで全員できてしまう不思議
「自由に自分のことを書いてごらんなさい」と言われて、
途方にくれた経験を皆さんはお持ちではないだろうか。
作文に書いて他人に見せるべき何かが自分の日常の中にあるとはとても思えず、
いったい何を書けって言うんだよ、と毒づいた経験を。
日常とはそこから切り出すべき何かがないほどのっぺりしているからこそ、
日常なのだ。
それを書くべき何か、他人に見せるべき何かとして、あえて選び出し、
場面として切り出し、手持ちのボキャブラリーで紙の上に再現する困難。
つまり、<日常をありのままに綴る>ためには、
そのような選び出しを行う眼を備えていることが必要であり、
「場面」にまとめるための文学的素養が必要であり、
少ないボキャブラリーをフルに使う表現の訓練が必要だ。
(こういう訓練をされておらず、またそんな訓練をされることに何の関心もない、
現代のワカモノの文章が、
そういう訓練を受けて書いている人間にとって
いかに理解しづらいかは、
mixiでワカモノたちが書く文章を見てみればよい。)
もし、この学校の生徒たちがこともなげにこれらをやってのけたのだとすれば、
それはもう、アメリカの初等/中等教育の勝利以外の何者でもない。
彼らはすでに素晴らしい教育を受けて来たのだ、と言わねばならない。
もし、この映画が本当にアメリカの公教育の荒廃を訴えたいのであれば、
彼らがこの「表現」方法/訓練を手に入れた経緯こそを描かなければならないだろう。
■ウサンクサイこと、その2 教師が生徒の作文に朱を入れる場面が
一つも出てこない不思議
これは「その1」と表裏一体なのだが、
生徒/学生にものを書かせて教育しようと思った教師は誰でも、
かならず一度はその大変さにため息をついた経験があるはずだ。
時間がべらぼうにかかる。ほとんどが朱を入れるための時間である。
あがってくる作文が(書き手の劣悪な教育環境にも関わらず)
手を入れる必要がないほどワンダフルであるというよーな希有な場合はいざ知らず、
たいてい、「始めー真ん中—終わり」という物語的構造を教え込むだけでも大変。
というより、表現の訓練とはまさに、教師の「朱入れ」によって行われる。
しかもこの点、教師が白人であり、ブルジョワ中産階級であり、
チシキ人である場合には、さらなる問題を提示することになる。
朱入れは、表現指導であると同時に思想指導である。
『山びこ学校』の無着成恭さんも、そのことには百パーセント自覚的だった。
作文は生徒と教師の合作とまで言い切っておられたからだ。
生活のなかの何に注目すべきか。何を問題としてえぐり出すべきか。
その目を持たせるのが教師の力量であり、
それは教師個人の思想の方向性を反映する。
そのような機能があるからこそ、作文は戦時中には皇民教育の一環として、
敗戦直後には民主主義教育の一環として重要視されたのである。
「朱入れ」を描かないというのは、
それがイデオロギー教育であることを隠蔽することに他ならない。
いや、イデオロギー教育であることそのものが悪いと言っているのではない。
教師であるならば、自分の「思想」(それがマルクシズムやらナショナリズムと言った
名指しできるものではなくても)を伝えたいと思ってしまうことは、
ほぼ避けられないわけだし、
何よりも「書くこと」を通じて学べる(learn)ことは、
自分が知らないうちに学んでしまった思想を、
意識的に解除(dislearn)することができるというところにあるのだから。
弊害と利点は表裏一体である。
問題はそれに自覚的か否か、その利点と弊害の両方を意識しているか否か、
というところにある。
ましてや隠蔽するなど、言語道断。
■ウサンクサイこと、その3 人種間闘争だけがあり、
階級間の問題はまったく不問に付される不思議
この映画において描かれているのは低所得階層内での人種間連帯だが、
決してアメリカ全体の社会構造に革命をもたらす方向には行かない。
行かないどころか、極めて保守的な構造を最終的には維持している。
例えば、ユダヤ人はホロコーストの犠牲者としてのみ描かれる。
なにしろ、低所得者層の人種的連帯の鍵となるのが、
「アンネ・フランクの日記」なのだから。
いかにもイスラエルびいきのアメリカ丸出し。
当のユダヤ人はアメリカの富裕層の中心的存在であるってことには、
どうやら登場人物の誰もがお気づきでない様子。
低所得者層内での人種的連帯の重要性に異議を差し挟む気はないが、
それが白人教師によって思想注入されており、
そうされていること自体が隠蔽されており、
おまけに階級構造そのものは温存されている、となると話は別である。
「自発性」だの「自由」だのという近代的価値が声高に言われながら、
実は保守構造の温存がしっかりと計られているお気楽ムービー。
同時に<書くこと>と<自己表現>をめぐる、
現代のユートピアの陥穽を余すところ無く伝えてくれる映画でもあった。
勉強になりました。
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