「花と兵隊」を観る
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第二次大戦後のアジアでの未帰還兵、とくれば、
真っ先に思い浮かぶのは「ビルマの竪琴」だろう。
子供のころはなんの疑いもなく読んだ「学校推薦図書」だったが、
日本語戦後文学研究者になって読み返すと、これがまた、
なんとも後味の悪い小説である。
子供向けに書かれているとはいえ、いやむしろ子供向けだからこそ、
偏見に満ちた紋切り型やご都合主義が露骨に現れる。
作者竹山道雄が従軍経験がないとか、ビルマを実際に訪れたことがない、
というのは、この小説の問題点としてよく指摘されることだが、
小説にとってはそうした作者の経験の欠如は、実のところ重要な問題ではない。
夏目漱石が猫になったことがないからといって、
『吾輩は猫である』の文学的価値は下がらないのである。
問題はむしろ、僧になって日本の死者だけを選択的に弔うという主人公を、
圧倒的に正しい存在として描き出す、その筆使いである。
主人公水島は、日本という地と決別してビルマ人の僧となることを決意した、
と一方で言いながら、その実、その選択的行為によって日本兵であり続ける。
ビルマ人の僧形をしたそのような日本兵は、現地と深い関わりを持ちようがない。
しかし、遠い異国に残る主人公の決心は、
「はにゅうの宿」のメロディーにのせてドラマチックに演出されることによって、
英雄的行為として手放しで称揚される。
そしてそのことの是非はおそらく今でも問われないままである。
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未帰還兵へのインタビューによるドキュメンタリー映画、「花と兵隊」。
(渋谷イメージフォーラムにて公開)
ビルマ人と敵対する山岳民族カレン族に保護された人。
堪能な中国語で中国人コミュニティで暮らした人。
車両整備の会社を起こして後にトヨタのアジア進出の一翼を担った人。
ポンプの技術を生かして現地の農業に貢献した人。
さまざまな土地を巡り日本兵の遺体を集めて埋葬した人。
この多様性は、それぞれの人が持っていた技術や運、
性格などによって生み出されている。
そしてどの人も「異国に残る大きな決心」などしていない。
人生の中で小さな選択を次々に重ねていった結果、
ここに流れつき、そこに受け入れられ、共生してきた人ばかりである。
餅つきのような小さな日本の習慣が、村の人々に受け入れられているさま、
家族を伴った日本人同士が現地語で会話するさま。
「そう、暮らすってそういうことなんだよな」
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撮ったのは若い青年監督である。
彼は、無造作に画像の中に映り込む。
画面の中の彼は、自分が聞いている話が一体どこへ向かうのか見当もつかない。
戸惑いを無防備にさらしている。
だがそれゆえに、彼には決まった地点へ話を持っていこうとする気負いが感じられない。
それが私には快かった。
どこまでも相手のことばに身を委ねて行き着く先を見定めようとしているように見えた。
もちろん、戦争の激戦地での話であるから、暗い闇も見え隠れする。
だがそれにもこの青年監督は臆することもなく、かといって、
そこをセンセーショナルに取り上げることもなく、
相手の今の生活とその闇を公平に塩梅しようとしている。
「そうだね、相手の話を聞くってそういうことだよね」
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インタビュアーの中で最もフィルムが使われていたのは、
100歳近いブラジル移民だったという元日本兵の老爺であった。
一度も離れたことがないというカレン族の奥さんと、
多くの子供、孫、ひ孫、そして無償で家を提供しているという、
避難民の家族たちに囲まれて、彼の顔は穏やかだった。
彼が奥さんと一緒に自分の墓の場所を決めに行く場面がある。
眺めがいいその場所を死後の住処に決めた彼のことばが忘れられない。
ここなら、お前達がいる村が見えて、その向うに日本があって、
その向うにブラジルがある。
みんな一つの円の中にあるんだ、だからここがいい。
「そうだね、そんな風に考えると、いいね」
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テーマは同じでも、「花と兵隊」は「ビルマの竪琴」の対極にある。
重苦しい映画だろうと思っていたのに、
私はほとんと清々しいような気持ちで夜の渋谷に出た。
青年監督の師である今村昌平監督が撮った未帰還兵のドキュメンタリーがあるという。
続けてみてみようか、と思う。