偶然の産物
どういう文脈だったのか、もう私ははっきりと覚えていない。
だが、どうやら私はその学生に「簡単に文化の違いなどということを
言っちゃいけない」と一喝したらしい。
私は授業中はきわめて穏やかでいつもにこにこしている(はずな)ので、
私が怒ったというのは、事実誤認だろうと思う(思いたい)のだが、
振り返ってみるとその当時は、そういう物言いを数多く学生から聞いていて、
にがにがしくも苛立たしくも思っていたのであろう。
私が所属する学部には、将来国際機関で働きたいというような希望を持つ
学生が多く入ってくる。本当に彼らがそう思っているのかどうかは
私にはいまひとつさだかではないのであるが、
とにかく、将来の夢などを聞かれるとそう答える学生が
ワンサカいるのである。
英語を勉強して、国際機関で働いて、といった彼らの「将来の夢」には、
「国際紛争などを解決して平和な世界にするために勉強する」
などという、無邪気な言説も一緒にくっついてきたりする。
「んじゃさ、国際紛争を解決するためにはどうすればいいの?」と突っ込むと、
「文化の違いを理解してコミュニケーションを円滑にします」という
決まり文句が続く。
いわゆる「外国人」と呼ばれる人たちと接し、
その人たちが明らかに自分には理解不可能な所作や言動をする場合、
それをざっくりと「文化の違い」と名づけることはよくある。
しかし、それを行うことによって、片付く問題など
はっきり言ってありはしない。
そもそも、「文化」ってなに?
そんなもの、みんなが納得するような形で存在するのか?
存在しないとすれば、誰が最後にそれを決めるんだ?
だいたい、英語で話し合って理解できる程度の違いなんて、
もとから大したことはないのである。
「わたし」と「そいつ」が大変に「違っている」として、
その差は育ちの差かもしれないし、性差かもしれないし、
能力の差かもしれないし、身体の差かもしれない。
違いを「違い」として認識するときは複雑な要素を総合的に
判断してそういう結論を出すのである。
そういう人間同士の交わりの複雑な位相を、
知的に分析することが求められている場にあって、
「文化の違い」などというお手軽なもの言いは、
「そこでもう違いについては考えるのを止めようぜ」という、
思考打ち止めサインに他ならない。
今から思えば、私はくだんの学生を特に叱ったというのではなく、
その学生をダシに使って日ごろの鬱憤を学生たちに向かって
晴らしたかったのかもしれない。
犠牲になってしまった彼には気の毒なことでもある。
その彼がこの前留学先のイギリスからメールをくれた。
彼はあれからずっと「文化」という<ことば>が使えないでいる。
そして留学中もずっとあの時なぜ叱られたのかについて
考えているのだそうである。
あのとき私が彼を「一喝した」のは本当に偶然の産物だった。
でも、彼はそれを覚えていてくれた。
彼の中に私の<ことば>を吸収する下地が、
これまた偶然にもあったのである。
まあでも、偶然でいいじゃないか。
ずっと考え続けることは、間違いなく絶対に大事なことなんだから。