英語・日本語・言語

January 23, 2006

偶然の産物

どういう文脈だったのか、もう私ははっきりと覚えていない。
だが、どうやら私はその学生に「簡単に文化の違いなどということを
言っちゃいけない」と一喝したらしい。

私は授業中はきわめて穏やかでいつもにこにこしている(はずな)ので、
私が怒ったというのは、事実誤認だろうと思う(思いたい)のだが、
振り返ってみるとその当時は、そういう物言いを数多く学生から聞いていて、
にがにがしくも苛立たしくも思っていたのであろう。

私が所属する学部には、将来国際機関で働きたいというような希望を持つ
学生が多く入ってくる。本当に彼らがそう思っているのかどうかは
私にはいまひとつさだかではないのであるが、
とにかく、将来の夢などを聞かれるとそう答える学生が
ワンサカいるのである。

英語を勉強して、国際機関で働いて、といった彼らの「将来の夢」には、
「国際紛争などを解決して平和な世界にするために勉強する」
などという、無邪気な言説も一緒にくっついてきたりする。
「んじゃさ、国際紛争を解決するためにはどうすればいいの?」と突っ込むと、
「文化の違いを理解してコミュニケーションを円滑にします」という
決まり文句が続く。

いわゆる「外国人」と呼ばれる人たちと接し、
その人たちが明らかに自分には理解不可能な所作や言動をする場合、
それをざっくりと「文化の違い」と名づけることはよくある。
しかし、それを行うことによって、片付く問題など
はっきり言ってありはしない。

そもそも、「文化」ってなに?
そんなもの、みんなが納得するような形で存在するのか?
存在しないとすれば、誰が最後にそれを決めるんだ?
だいたい、英語で話し合って理解できる程度の違いなんて、
もとから大したことはないのである。

「わたし」と「そいつ」が大変に「違っている」として、
その差は育ちの差かもしれないし、性差かもしれないし、
能力の差かもしれないし、身体の差かもしれない。
違いを「違い」として認識するときは複雑な要素を総合的に
判断してそういう結論を出すのである。

そういう人間同士の交わりの複雑な位相を、
知的に分析することが求められている場にあって、
「文化の違い」などというお手軽なもの言いは、
「そこでもう違いについては考えるのを止めようぜ」という、
思考打ち止めサインに他ならない。

今から思えば、私はくだんの学生を特に叱ったというのではなく、
その学生をダシに使って日ごろの鬱憤を学生たちに向かって
晴らしたかったのかもしれない。
犠牲になってしまった彼には気の毒なことでもある。

その彼がこの前留学先のイギリスからメールをくれた。
彼はあれからずっと「文化」という<ことば>が使えないでいる。
そして留学中もずっとあの時なぜ叱られたのかについて
考えているのだそうである。

あのとき私が彼を「一喝した」のは本当に偶然の産物だった。
でも、彼はそれを覚えていてくれた。
彼の中に私の<ことば>を吸収する下地が、
これまた偶然にもあったのである。

まあでも、偶然でいいじゃないか。
ずっと考え続けることは、間違いなく絶対に大事なことなんだから。

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December 10, 2005

「問題解決能力」をめぐる問答

午後、学生が来る。
「問題解決能力」について私の話が聞きたい、というから、
「それなら、ちゃんと質問を用意して、私をインタビューしろ」と
言ったら感心なことにちゃんと準備をしてきた。

一体なぜ、彼はそのようなものに興味を抱いているのか。
大学を選ぶ際に見たパンフレットの多くにその<ことば>が
書いてあったのだ、という。
(まだ、確認はしていないが、ウチの学部のパンフにも、
あったんだそうだ。そりゃ、あるだろうな。ウチの学部がいかにも
好きそうな<ことば>だもんな・・・)

で、彼の最初の質問は、

いったいいつごろから「問題解決能力」が必要とされるように
なったのか?

であった。

これは大学一年生くらいであれば、当然出てくる問いである。
しかし、これには私は答えようがない。
なぜなら、この質問には私が共有しない前提が
2つ含まれているからである。

前提その1 「問題解決能力」なるものが誰にもわかる形で存在する
前提その2 その「能力」が今必要とされている

このどちらにも私は与しない。

むしろ、少子化問題を目の前にして入学者数を確保するために、
てめぇの大学を宣伝する必要が大学側に生じ、
大学時代に蓄積する知識など役に立たないということが
すでにクリシェ化している企業社会に住む親たちを前に、
出口付近の学生の能力をわかりやすく説明するべく、
どこかからパクってきた宣伝ジャーゴンの一つだと考える
方がはるかにツジツマがあう。

だから、「いつ」を問うなら、「いつごろから、大学はそんな
<ことば>で自らの質を説明する必要にかられるようになったのか」
と問うた方が、実証可能であるがゆえに生産的である。

===

<ことば>があるからといって、そこに実体が存在するわけではない。

りんごがそこにないにも関わらず、「りんごがそこにあるよ」と言うことが
できる
、ということが<ことば>の持つ力の最悪にして最高の資質なのである。

実体がない(かもしれない)ものに形を与えることができるという、
この<ことば>の機能こそ、すべての学問に存在価値を与え、
その機能を最大限に使う文学に、大きな存在価値を与えてきたのである。

学問世界にも企業社会にも汎用可能な
「問題解決能力」なるものがもしあるとすれば、
それはこうした<ことば>の機能を正確に理解し、
操る能力に他ならない。

混沌としか見えない「状況」を目の前にして、
「問題」なるものを<ことば>を駆使することによって
可視化させて他人と共有可能なものにし、
さらにそれによって「解決」なるものも同時に可視化させて
他人と共有可能とし、
その共有を持って他人と協力していくことが可能になるならば、
「問題」が「解決」されたという快感も、
「状況」が「改善」されたという快感も、
他人と分かち合うことができ、
その快感が生活の原体験として確立されるならば、
他人との共生が少しは容易になるのではあるまいか。

=======
ってなことをつらつら考えた一日であった。

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October 30, 2005

下町で観劇

授業のあと、隅田川沿いのベニサン・ピットへ。

こんなとこに劇場があんのんかいな?というような、
工場街に建つシュールな芝居小屋である。
50名も入ればいっぱいのところへ、観客にザブトン持たせて
通路に詰め込む。
1時間50分トイレ休憩なし。だって、身動きとれんもんね。

二兎社の『歌わせたい男たち』は、都立高校の卒業式での
君が代不起立問題を扱った出し物である。
不起立者を憎悪する国際派の若い英語教師。
デモにも行ったことはないが、
どうしても起立して歌うことのできない日本史の教師。
10年前は「内心の自由」を説いていたのに
「転向」してしまった校長。
そして、君が代の伴奏のためだけに雇われた
元シャンソン歌手の臨時音楽教師。

なかなか良くできた脚本で、俳優の芸も堪能させてもらった。
主役の戸田恵子さん、近藤芳正さんはもとより、
いいとも青年隊出身の中上雅巳クンの英語教師が
思いのほか(失礼!)よかった。
英語という科目に代表されている「国際性」が
国内政治的には権力志向の保守主義を基盤にしていることを
体現する登場人物であるが、
若くて颯爽としていて抜け目のない、
イヤ~な人物に出来上がっていた。

脚本はノンポリであるシャンソン歌手(戸田恵子さん)が
政治的に目覚めていく、いわば啓蒙型の物語として造られている。
しかし、こうやって書いてみると、こちらの英語青年の啓蒙物語でも
おもしろいものが仕上がったかもしれない、と思う。

もちろん、ないものねだりだから、
このことが永井愛さんの脚本の値打ちを下げるものでは
まったくないのだが、
私は以前から個人的に、
日本の「英語」という語学学習の過程そのものに、
保守国際主義とリンクしていくメカニズムがあるという仮説を
持っていたので、そこんとこをベタなレベルで
誰かうまく解きほぐしてくれないかなあと
思っただけなのである。

(コレももちろん私が自分で作った仮説じゃなくて、
酒井直樹氏が翻訳と主体をめぐる理論的な議論の中で、
翻訳的発話行為の中から共同性のある主体が
立ち上がってくるメカニズムについて分析しておられる。
それをパクってテキトーにアレンジした粗雑なシロモノである。
酒井直樹『日本思想という問題ー翻訳と主体』岩波書店)

「相棒」でお馴染みの大谷亮介さんが、
東京都の教育行政のアホらしさを
一身に体現するカナメの大役であった。

舞台と観客席が異常に近く感じられる劇場である。
演技者は観客の空気に巻き込まれない
一つの小宇宙を舞台に作らねばならないから、
相当のエネルギーがいることだろう。

隣の他人と身を寄せ合うようにしなければならない
劣悪な環境をまったく意識の登らせないよい舞台であった。

水の匂いのする工場街を、芝居の余韻を楽しみつつ、
家路に向かうもまた、オツなものなり。

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August 06, 2005

集中講義で

朝10時半から午後5時半まで、4コマ連続の講義。
受講者88名だというから、学生にしゃべらせるわけにはいかないし、そうなると
センセイがしゃべりっぱなし、ということだ。
私は自慢じゃないけど、体力ないのだ。
ネタはあっても、しゃべり続ける体力がない。
暑いし。
チョコラBBローヤルをぐいっとあおって文学部に乗り込む。

お題は「世界の中の日本文学研究」。
私は主に日本近代文学の英語訳についてしゃべることにしている。
というより、持ちネタを使える授業でなければ引き受けていない。
日本文学が「世界の中の」という修飾句をつけられるためには、
英語に訳されなければダメなのよ、というお話をする。
マイナー言語である日本語で書かれた文学が「世界」でその存在を
認知され、それなりに流通するためには、英語に訳されねばならない、
という至極当たり前だがあまり考えられていないことに、
学生の注意を向けるためである。
ただ、私は結論は単純に
「だからどんどん英語訳してもらいましょう」というものではないし、
「どんどん世界に通用する文学を書いてもらいましょう」という
ものでもない。
こんな形で「世界の中の日本文学」になることだけが目指されてしまったら、
日本語の文学は、というより文学は、絶滅するしかないからである。

私たちはもはや「英語」という言語の強大さを無視して
日本語の世界にこもっているわけにはいかなくなった。
世界言語となった「英語」という言語との関わりの中で
日本語(そしてそれ以外のマイナー言語)を考えることを
余儀なくされている。
あるいは「英語」という元マイナー言語と、
世界言語になった「英語」という言語との関わりを考えることを
要求されている。
その領域は、英語で授業をすることをウリにしている国際教養学部の
ようなところでほとんど考えられていないのは、
悲しいことだ。

88名の学生を、どうやって最後まで1人でも多く寝かせないか。
センセイはがんばりましたよ。
でも、やはり、数名は撃沈していた。
ま、私自身、京都で不良大学生だったので、人のことをとやかくは言えない。

終わったら、センセイが撃沈していた。
もうしばらく誰ともしゃべりたくない・・・

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June 26, 2005

学会点描(2)

■ひとりごと。

■この学会に来ると、奇妙な「孤島」に来てしまったような気がする。ここで行われる発表のうち一体いくつが、日本語に翻訳されることを前提になされているのだろう。あまり多くはないと思われた。

■英語で行われる日本研究は、日本語で行われる日本関係の研究とは似て非なるものである。同じ日本のことを研究しているのなら、言語は違っているだけで内容は同じだろうと思われるかもしれないが、決してそうはならない。なぜなら、研究を支える制度がまったく異なっているからだ。これは研究内容のレベルともまた違った話である。英語で行われる日本研究が、英語で行われているからといって劣っているわけではない。また、それゆえに優れているわけでもない。海を隔てたどちら側にも、玉もあれば石もある。おそらく混ざり具合だって同じようなものだろう。

■この二つは、研究者個人のレベルでは交錯しているが、組織としても学問領域としても交錯してはいない。アメリカのアジア学会は、それ自体でひとつの大きな勢力である。日本の日本関連の研究も、もちろんそれぞれの分野で確固たる基盤を持つ。そして、それぞれの国でそれぞれの言語で行われている限り、その閉鎖性は顕在化されない。

■しかし、日本語に開かれる可能性を考えない英語の日本学が、東京の片隅でひっそりと行われるとき、それはやりきれないほど物悲しい「孤島」のイメージを喚起する。発表を聞きながら、私は自分がどこにいるのかよくわからなくなった。

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March 04, 2005

留学ってなんだーっけ、なんだっけ?(続)

■大学院に進学する頃になって、私は「留学している」という自覚を、もうすでに持っていないことを発見した。おそらくこれは、「日本に帰る」という将来のビジョンをその頃から捨てたからである。その代わりに、アメリカという場所でこれからも生きていくというビジョンを持つようになった。もっと正確に言えば、アメリカで職を得ておマンマを食う、ということが現実的になったのである。これは、アメリカに留学してました、と言うことで日本で受けられる有形無形の利益を断念し、留学という<ことば>の持ちうる特権がチャラになってしまう場所で生きる、ということでもある。だから、1989年以降の私は、アメリカの大学院には在籍していたが、意識の上で留学をしていたわけではなかったのである。

■ところが、人には言えないさまざまなウヨキョクセツの後、結局私は日本で職を得て、おマンマを喰うことになった。それもアメリカの大学のようにテニュア制度はないから、法でも犯さない限り、ほとんど終身雇用・永久就職である。そうなって初めて、私は自分の履歴書の真ん中の部分をひとからげにして「留学」と呼ぶことができるようになった。考えてみれば当たり前のことだ。「留学」という<ことば>には、「帰る(べき)場所」というコンセプトが埋め込まれている。単に「留」まって「学」ぶのではなく、「帰ってからの人生」を基準に「外にいること」を意味づけること。そういう物語を自分で作ること。これがないと完全な意味における「留学」には、おそらくならないのである。

■今年、ウチの大学は700名弱の学生を「留学生」として、海外の大学に派遣する。それに伴うすべての業務を取り仕切る「留学センター」という組織の、私はパシリ、いやもとい、エライさんである。700名の「留学生」を見ながら、この子らはこれからの一年間を将来どう語るようになるのだろう、と思う日々である。

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February 27, 2005

留学ってなんだーっけ、なんだっけ?

■下の文章は、私が以前大学の中の「国際教育センター」付きの教員をやっていた頃に書いたエッセイもどきからの引用である。

「私の留学体験」というお題だが、私は、高校以来の学歴がすべてこれ「留学」という、ほとんど「留学のプロ」である。日本の大学の科目で夏休みに語学をやる短期のものから、半年の語学研修、アメリカの大学に編入する正規留学、アメリカの大学からイギリスの大学への留学、アメリカの大学院から日本文学の博士論文を書くための日本への留学。どこからどこに行くのが留学なのやら、もう本人にもよくわからない。ついでに言うと、私の父も「あこがれのハワイ航路」(船です!)で留学をしている。親子2代の留学人生である。

「2004年に生きる君にとって<留学>ってなんですか」とおおぎょうなタイトルがつけてある。それなりに思うところあって、こうしたタイトルをつけたのだが、読者である学生たちにとってみれば、本音のところは「知るかっ、んなもんっ!」だろうと思う。これから「留学」する人や、今「留学」の真っ最中という人たちにとっては、とてもそんな悠長に「自分にとって<留学>とはなんなのか」などと、沈思黙考する余裕はない。またする必要も感じない。だからそれはそれでいいのである。

■そもそも私自身が上のように、自分の人生のある部分をおしなべて「留学」という<ことば>のもとに括り、「あたしゃ、<留学のプロ>さ」などという少々自嘲的な言い草を、場合に応じてひねくりだすことができるようになったのは、つい最近のことなのである。それまでは、「留学」という<ことば>にはずいぶん座りの悪い思いを抱いていた。振り返ってみると、「留学してるんだ」という意識を明確に持っていたと言えるのは、上で書いた経歴で言うなら、アメリカの大学に編入していわゆる正規留学をしていた2年間のみだと思う。それ以外の経歴は、「留学」だと思っていなかった。

■正規留学の前に行った語学留学の時期には、ただ、日本の英会話学校ではラチがあかないので、より効率のよい言語習得修行のためにアメリカの英会話学校に来ているのだ、と思っていた。だって、そのころは「語学留学」という<ことば>さえなかったのだ。つまり今で言うところの「語学留学」は「留学」という<ことば>の指し示す意味の射程には入っていなかったのである。(続く)

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July 02, 2004

友来たりなば

久しぶりの友人の来訪。
一年に一度のお楽しみです。
アメリカの大学で教鞭を取っている彼女とは本当に
一年に二度会えるか会えないか。お互いいつも、
もっと話したいね、と言いながら、こちらが行くときは向こうが忙しく、
向こうから来てくれるときはこちらが忙しい。

▲私と彼女は15年ほど前アメリカの大学の日本文学の授業で出会いました。日本ではあまり見かけなかった、きれいなアーモンド型の目を縁取る黒いアイライナーを見て、私は「これは日本人じゃないな、東南アジアだな」と思っていました。クラスで自己紹介が始まると彼女は、まったくアクセントのない英語で日本語の名前を言ったので、こんどは「これは日系人か、キコクシジョだな」と思いました。授業が終わってから、中西部の公立大学特有ののっぺりとしたキャンパスを数人で歩きながら、「日本語と英語のどっちが楽なの?」と聞いたことを覚えています。「ちゃんぽん!」という彼女の答え以来15年、われわれの間では「ちゃんぽん」が基本言語であります。

▲彼女は私より年がかなり下なんですが、出会った当初からほとんどそれを意識したことがありません。ときどき、お互いに年齢のことをジョークにしたりすることはあるのに、会話の中でそのことがなんらかの形でお互いの<ことば>を規制することはほとんどない。私には、年下の初対面の人に敬語を使ってもらえないとムッとする、という悪い癖があるのですが、一度も敬語を使わなかった彼女に対して、「ちゃんと敬語くらい使えよ」などと一度も思ったことがないのです。

▲このことは、出会ったのが授業という対等の場であったということだけでなく、初めから関係の構築を<日本語>オンリーで行わなかった、ということがあるに違いありません。<日本語>で初対面の方と会うときは、とりあえず敬語を操りながら、お互いにcomfortableな関係を手探りで作り上げていくという作業を強いられます。そのうちに「もうタメでいいよ」というような風に、意識的に上下関係を取り除くこともありますが、これとてもやはり上の人が下の人に言うのが決まりであって、下の人からそんなことを言うことはまずないでしょう。いろいろやり取りをする中で、その人とはこういう<ことば>で話すという型がだんだんと出来上がってくるわけです。<日本語>というのはそういう言語です。ところが、<ちゃんぽん>という言語は、<日本語>だけで話をしていたら出来上がっていなかったかもしれない不思議な関係を、一番最初から作ってくれたのでした。

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May 27, 2004

尻切れとんぼが気になって

久しぶりの「大学へ行かなくていい日」です。
ゆったりとした気分で自分の論文を書いています。
その合間においしいコーヒーを淹れて、こんなことを
考えていました。

▲『英語でしゃべらナイト』という番組があります。内容をあまり知らないので、それについてとやかく言う権利は私にはないし、言うつもりもいまんとこ、ない。英語学習の専門家ではない私には、その内容の良し悪しを判断する資格も、ない。ただ、この番組名を聞くたびに、どうしようもなく苛立ってしまう気持ちがあるんです。それがまた、「嫌だーっ」って叫びたくなるほどなんです。すごいんです、その嫌さ加減が。

▲つらつら思うにですね、嫌悪感の源はこの題名が「しゃべらないと」で切れてしまっているところにあるんではないのか…。あー、はい、わかってます、わかってます。「ないと」に「ナイト」がかかっていることくらいは。私だって一応ブンガクシャつらしてるくらいですから。単なるだじゃれなんだから、と言われればそれまでなんですけれども、私としては「しゃべらないとどうなるって言うんだよ!?」と突っ込みたくなってしまう。

▲その次に続く<ことば>はなんなのか。「英語でしゃべらないと…ダメなんだよ~」と気弱く言っちゃってるのか、それとも「英語でしゃべらないと…お尻ぺんぺんですよっ!」と怒られているのか。はたまた、「英語でしゃべらないと…おてんとさまの下を歩けなくなるんだぞ」と脅されているのか。どれにしても、言われている方が気持ちよくなるようなシチュエーションは考えつかない。私にしたって、英語をしゃべらないとおマンマの食い上げになってしまう。それがまた、はっきり言うんじゃなくて途中で止まってるもんだから、見えない相手に脅されてるみたい。

▲なぜ英語をしゃべらないと問題なのか。私が一番大事だと思う部分がきれいにぼかされていて、「しゃべらないと、しゃべらないと」って強迫観念ばっかりあおっている感じ。やな感じ。というわけで、このところ聞くたびにいらいらする<ことば>のナンバーワンの座を占めております。

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May 09, 2004

一枚の絵葉書から…

お掃除をしていて出てきた一枚の絵葉書…
そこからまたわたしの<ことば>への思考が始まりました。

▲ゴールデンウィークに押入れの整理をしていたら、実家が引っ越したときに送ってきた箱が出てきました。何が入ってるんだっけか?と思い、開けてみましたところ、ヒジョーに恥ずかしいものが出てきました。大昔、まだ中学生だった頃に友人とやってた交換日記、高校の頃に書き溜めた詩みたいなもの、読むだけで「うわぁっっ」って声が出てしまうようなシロモノが、わさわさと出てきたのです。
▲その中に、大学2年のころ、アメリカ人の友人にあてて書いたらしい一枚のはがきがありました。どうしてそれを出さなかったか記憶にないのですが、たどたどしい英語で “I’m going to the United States this summer. I’m very exciting!” と書いてありました。アイム ベリー エキサイティング??そりゃあ、アンタ、I’m very excitedだろうよっ!アンタがexcitingな存在になってどーすんだよっ!
▲ひとしきり、昔の自分に突っ込んだあと、うーん、と考えこんでしまいました。つまり、大学2年のrichicoはまだ、I’m very excitingと書いてしまうくらいの英語力だった、という事実。つまり、信州大学経済学部で言うなら英語中級の下か、下手したら初級くらいのレベルだった、ということ(わかる人はわかると思うけど)。英語の入試が突出してむずかしいことで知られる同志社大学に入れたのは、やはり入試なしの内部進学だったからだし(わかる人はわかると思うけど)、「英会話の●―オン」で言うならPNFに入れるかどうか、というところだったわけです(わかる人はわかると思うけど)。
▲ところが、今の職場では、私を<帰国子女>だと思っている人がたくさんいます。あなたはほとんど<ネィティヴ>だから、と言われてまかされた仕事なんかもあります。私が<留学>時代の苦労話をしようとしたら、同僚に「サカキバラさん(richicoの姓)はぜんぜん苦労してないじゃない」と言われたこともあります。こういうとき、私は一応抵抗して「私だって、単語カード作って単語覚えたクチなんですよ」と言うのですが、「またまた」「いやいやそんな」という反応がせいぜい返ってくるだけです。アメリカ人の学生が “I think you will understand my problems since your English is so good.”と言って悩みを打ち明けにきたことまでありました。
▲「英語という言語は私が単語カードを繰って、文法を参考書で勉強して、英会話学校に通って身につけたものですよ。ただ、覚えてもいない小さいときに染み付いた<発音>が、英語がしゃべれるようになると出てきただけなんです」おそらく、こう説明するのが一番真実に近いのでしょう。私は明らかに<ネイティヴ>ではないし(なにしろI’m excitingですから)、かといって一般の<英語学習者>ともいえない。<英語学習者>がもっとも苦労する<発音>を学習する必要を免除されているからです。<帰国子女>にも当てはまりそうで、当てはまらない。なにしろ私がアメリカにいたのは、小学校一年のとき1年程度で、その後まったく英語を忘れてしまっている。だからどのレッテルを貼り付けられても、とても居心地が悪い。
▲以前は、この居心地の悪さをわかってもらおうとする気持ちばかりが先行して、どのレッテルに対しても「違うんですよ」と異議を唱えていたのですが、最近は<ネイティヴ>と言われれば<ネイティヴ>として仕事し、<英語学習者>としての意見を求められれば<英語学習者>として意見し、<帰国子女>と言われればそれなりの対応をする、というようになってきました。現場でどう振るまうかということよりもはるかに重要なことは、この「居心地の悪さ」自体を、自分の納得のいく<ことば>――それは私にとっては<理論的なことば>ということなのですが――で言語化しようとすることなのだと気づいたからです。ぜひこの<ことば>ノートを読んでくださっている方々にもいろいろお話を聞きながら、続けて考えていきたいことの一つです。

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May 03, 2004

メディアとしての英語

猫も杓子も「英語」のご時世に、違和感ばかりを感じてきたにもかかわらず、
「英語教師」をやんなきゃいけなかったり、「国際教養」なんてところに入ってしまったり。
でも、違和感を少しずつでも言語化していきたいので、今日はこんなお話を…

▲ 留学志望の学生たちからよく聞くセリフに「外人と話せるようになりたい」「映画を字幕なしで聞き取れるようになりたい」というのがあります。もうこれで百人以上の留学志望学生と話をしていると思いますけれど、「意味の通る知的な英語が書けるようになりたい」とか「たくさん本が読めるようになりたい」という学生は一人もいなかった。使い慣れているはずの日本語でも「読む」「書く」は敬遠されているのだから、ましてや外国語?!ということなんでしょうか。いや、おそらくそれよりも、「日本の英語教育が読み書き文法を重視して肝心のコミュニケーション能力を軽視してきた」という定説が学生の中にも刷り込まれていると見たほうが正しいのかもしれません。
▲ でもね、と私は学生によく言います。これから大切になる英語の能力は、「話す」「聞く」よりも「読む」「書く」だよ、って。「日本の英語教育は…」という定説って、50年代・60年代に英語を学校で学んだオジサンたちが、80年代くらいにアメリカに出かけて工場作ったりしなきゃならなくなって、それこそエリートじゃない人たちも出かけていかなきゃならなくなって、工場のアメリカ人なんかと会話ができなくて、みじめな思いをして、その恨みが作ったシロモノなんじゃないかと私は思ってます。でも、その頃と今って英語の運用形態、言ってみればメディアにすごい大きな違いがある。ほら、コレ、今私が利用しているインターネットです。
▲ 日本のどんな片田舎に住んでいたとしても、ネットにつなぐことができ、英語の読み書きができれば、そこには瞬時に今までとは比べ物にならないくらいの情報がつまっているスペースが現れ、自分の言いたいことを発信することができる状況を私たちは手に入れた。早い話が、アルジャジーラの英語サイトにアクセスして、人質の人々の人道的な活動についての情報をイスラム世界の人々に向けて直接発信することだって、できちゃうわけなのですよ。
▲ もちろん、こういう状態が手放しのウハウハ状態だとは、私も思ってはいません。それどころか、問題山積みだと思ってます(そのうち書くことになるでしょうけど)。でも、英語の「読み」と「書き」に関しては、インターネットというメディアによって今までになかった可能性がひろがった、英語をお勉強する意味もひろがった。これは絶対、そう。
▲ どんな相手に、何を伝えたいから<ことば>を勉強しようとするのか。そして、どんな勉強をするべきなのか。「英語」「英語」とかまびすしいヨノナカだからこそ、しっかりと考えるべきだと思うんだけど…。

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April 29, 2004

richico のプロフィール

▲ 1964年、アメリカのインディアナ州のリッチモンドという小さな街で生まれました。一歳半くらいで帰国したので、世間でいうところの<バイリンガル>にはなり損ねましたが、アメリカ国籍をもらいかなり長い間二重国籍を持っていました。このことが後に、文化と言葉と国籍との関係を考える基盤となりました。
▲ アメリカには、6歳のころにもう一度帰っています。ミネソタ州のノースフィールドという街で小学校に行きました。このときどういうわけか、アメリカ中西部のアクセントが自分の身体に残りました。この後、英語は忘れてしまったのですが、身体に染みついた、ネイティヴと変わらないアクセントの存在が、逆に<ネイティヴ>とは何なのかという疑問を常に私につきつけることとなりました。
▲ 地元の小学校を出た後、同志社女子中学・高校と進みます。国語は得意科目ではありましたが、結局大学では歴史を勉強しようと決めました。決めた理由は単純。司馬遼太郎の歴史小説が好きだったのです。同志社大学の文化史学科に入ってからようやく、自分が<歴史>と<歴史小説>を混同していたことに気づきました。
▲ 大学卒業後、アメリカのマサチューセッツ州にあるアマースト大学に編入しました。学校で学ぶ<英語>にはあまり興味をもてなかったのですが、<外国語>を話すことによって出てくる不自由さには強烈に惹かれ、「英語を自由に使えるようになること」が人生の目標の一つになってしまうところまでこの言語にコミットすることになりました。
▲ 大学院はミシガン州のミシガン大学に行きました。日本の文学とアメリカの文学を比較するつもりで、比較文学科なるところに行ったのですが、フタを開けてみると、そこは文学理論を専門に勉強する場所。わけもわからず、フーコーやデリダやラカンを毎日読まされ、私が勉強したかった<文学>とこれらがどのように関わるのか、頭に???をいっぱい抱えていた2年間でした。今にして思えば、私はアメリカで脱構築の理論的訓練を受けた最後の世代ということになるのだろうと思います。
▲ この頃、私に決定的な影響をあたえることになった二人の人との出会いがありました。一人は今でも躊躇なく親友と呼べる上田敦子さん、もう一人はどうしても先生をつけなくては名前を呼べない作家の水村美苗さん。上田さんはいわゆる帰国子女で、自分たちが<言葉>に取り巻かれていて、それが自分たちのどうしようもない部分を形成しているのだ、という認識を共有できた数少ない人でした。水村先生は<言葉>で考えるのではなく、<言葉>を通して思考するということを、身をもって教えてくださった方でした。
▲ <理論>責めの比較文学科を修士でさっさと見切りをつけて、日本文学科に移った私でしたが、比較文学科を去ってから本格的に<理論>と向き合うようになりました。博士論文を太宰治で書くことを決めてから日本に帰り、東京大学の小森陽一先生のもとで勉強をさせていただくことになりました。<読む>という行為の持つ可能性を、私は小森先生から学びました。
▲ 博士論文を書きながら就職活動をして、信州大学経済学部に職を得ました。<英語>を教える仕事です。日本の中で<英語>という言語が占めている奇妙な地位について徹底的に考えさせれられた3年間でした。経済学や政治学といった異なる分野にいる人であっても、<言葉>について考えている学者がいるのだなあと知ったのも、この信州大学経済学部でした。特に井上信宏さんとは、読書会や映画会、学会発表など、分野を超えたプロジェクトをいろいろと組むことになりました。
▲ 2002年から早稲田大学国際教育センターで、<英語>で<日本文学>について教えるという仕事に就くようになりました。この四月から新設された国際教養学部に移ってからも基本的な仕事内容は変わっていません。<日本語>を学ぶ外国人留学生や、かつての私のように<英語>を学んで<留学>しようとしている早稲田の学生に日々接する中で、私の<言葉>への思いは尽きるところを知りません。

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