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京都文教大学主催で「生活綴り方から戦後を考える」と銘打った
シンポジュームが開かれたので、
東京で開かれていた別の学会を放り出して京都日帰りを決行。
「綴り方」などといっても、
今の学生はおそらくなんのことやら見当もつくまいが、
簡単に言ってしまえば「作文」のことである。
その昔、今では考えられないほど「作文を書くこと」が教育の中心だった時代があった。
敗戦後1949年から1950年代にかけて、である。
山形県の山村で作られた一冊の作文集『山びこ学校』がベストセラーになり、
映画化・劇化されたのが1951-2年にかけて。
その作文指導をした無着成恭は一躍教育界のスターとなった。
今で言うなら、かの「ヤンキー先生」みたいなものである。
映画のDVDも手元にあるが、主演は木村功。
無着本人はこんなに洗練された都会的な風貌の持ち主ではなかったようだが、
そこは「ヤンキー先生」と竹之内豊の懸隔よりはましだったかもしれない。
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ベストセラーとなった『山びこ学校』の影響を受けて、
四日市市の紡績工場で働く若い女工たちが作文を書き、出版され、
大人の書く作文として「生活記録」と呼ばれた。
全国で、子供が、大人が、紙の不足するなか、
こりこりとエンピツを握って作文を書き、読みあい、また書き直し、
ガリ版ずりをして作文集を作っていた時代があったのだ。
今回のシンポジュームは、『山びこ学校』で無着に教えを受けた一人、
佐藤藤三郎さんと、紡績工場で生活記録を指導した澤井余四郎さんの
お二人が話される。
まさに「時代の証言者」のお話しが聞けるのである。
悪いが、ガクシャの社交場である学会なんぞに行って、
旧交を温めている場合ではない。
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壇上左手には、コメンテーターという肩書きをつけた学者が数名。
右手には佐藤さんと澤井さん。
佐藤さんから講演が始まった。
マイクにむかった佐藤さんは、開口一番に
「自分は何を話したらいいかわからない」とおっしゃった。
学者先生は「生活綴り方から戦後を考える」のかもしれないが、
自分はそんなことをまったく考えたことがない、と。
学問の一部として生活綴り方運動を考えようという人間と、
「生活綴り方運動」という呼び方にすら無縁なまま、
ひたすら山元村の現実を生きてきた人間。
この一言は、その百里の径庭を照らし出す一言だった。
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むろん、私はその径庭に今気づいたわけではない。
そんなことは、ずっと前からわかっていたことである。
学者の仕事は、言ってみれば時代の遺体解剖である。
それはその時代を生きた人間と関係があるようでいて、
実は確たる関係がない。
いや、あるのだろうが、その関係は単純なものではない。
だから遺体解剖の<ことば>は、生きた人間の<ことば>とうまく噛みあわない。
佐藤さんがシンポジュームのタイトルに違和感をしめしたように、
こちらがわの学者も彼の<証言>には違和感がある。
だがそれは、彼の<証言>を信用しないということではない。
まったく信用しないのなら、のこのこ京都くんだりまで出てきたりしないのだ。
時代の<証言>は重要だが、
それはその一言一句を信じなければならないから重要なわけではない。
原理的に言って、誰も時代すべてを見通した特権的な証言者にはなれないからだ。
見聞きしたことを証言と呼ぶならば、
それは必然的に限定的な視点しか供給しない。
むしろ、私の仕事は語られた<証言>の<ことば>から、
限定的視点のありようを探り出し、
それを全体的な視点の仮構に正しく使用することである。
私が資料を読み込んだり、戦後を考えてきたことによって得たなにかを、
佐藤さんが知ることはないし、知る必要もない。
逆に佐藤さんが考えてこられたことを私は知らない。
私の頭のなかで、佐藤さんが知りえなかったことと、
私が知りえなかったことの擦りあわされて、何かが生まれる。
それが<証言>を聴く、
耳をすませて聴くということの意味である。
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遺体解剖をしてしかわからないことがある。
生きているからこそわかることがある。
私は息遣いの聞こえる遺体解剖の<ことば>を語りたい。
そのためにはいったいあと何年修行すればよいのだろう・・・
私は精神の高揚感と、なんともいえない違和感と、うっすらとした絶望感を抱いて、
東京行きの新幹線に乗り込んだ。