映画・テレビ・演劇

November 15, 2009

構成力のもんだい


最近の若手のお笑いで構成力がまるでないのは見るに耐えない、と
松本人志がラジオで言っていたのを聞いたことがある。
「若い奴はもっと落語を聞くべきや」と。
なるほど、松本の「すべらない話」における構成力は、
落語で培われたものだったのか、とそのとき合点がいったのだった。

不必要なディテールを省いてテンポを早め、
オチの効果を最大限に高めるために、
聞き手に与える情報の順序を決めてたたみかけ、
それでも決してオチを予見させぬ。
意外性がなければ人は笑わない。


しかし、もちろんそのパターンだけが芸ではない。
笑福亭鶴瓶の話は「すべらない話」の対極にある。
ディテールこそが命であり、しかもそのディテールが必要なのか、
不必要なのか聞き手にはよく見えない。
おそらく本人もその場ではわかっていないのだろう。
時にはそのまま別の方向に行ってしまったりもする。
それなのにまとまり(オチではない)がつく。
(むろん、この上手さに関しては松本もおおいに認めるところだ)


先日、鶴瓶の古典落語を聞きにいった。

最初に立ったままマイクを持ってフリートーク。
次に中川家の漫才。

私は漫才を舞台で見たのは実は始めてだったのだが、
中川家にも鶴瓶のフリートークのような、
どこまでが決められた台本でどこからがそうでないディテールなのか
わからないスリルがあった。
寄席で培われた技術に違いない。
堪能した。

最後の古典落語はまくらなしのスタートである。
これはよかった。
最初のフリートークとの差が際立ったからだ。
「らくだ」も「愛宕山」も練りに練られた構成を持つ。
比較的動きの少ない「らくだ」、派手な動きのある「愛宕山」。
対比も見事であった。


だが、ちょっと私には「らくだ」の前半部分の屑屋が哀しすぎた。
哀愁にじむ人物をやらせたらピカ一の鶴瓶師匠だったからだろう。
力関係が逆転してからも、その哀しさを引きずってしまった感じがする。

帰って来て、DVDで米朝の「らくだ」を見た。
なるほど、けっこう暢気な屑屋に仕上がっていたが、
その分どんでん返しのインパクトは少ないように思った。

ナマモノの構成はなかなかに難しいことであるよ、
と思ったのだった。

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October 26, 2009

「ヴィヨンの妻」をふたつ


友人を誘って公開中の映画「ヴィヨンの妻」に行く。

画面は一見しゃれたフランス映画のようでもあり、
細部までよく作られ過ぎたためにむしろ平成の匂いがする、
人工的な「昭和」である。
(私は横浜のラーメン博物館を思いだした)

前半部分のセリフは極めて原作のセリフ部分に忠実に作られている。
ただ原作は妻の「私語り」なので、いわば実際に発話されているセリフ
(小説で言うと主にカギかっこ部分)以外にこころの声があり、
むしろそれが中心なのだが、
映画は「私語り」方式になっていないため、
会話部分しか再現されていない。
つまり「こころの声」の部分は役者の演技でまかなわなければならないことになるが、
松たか子はさすがにそのへん堂にいっていて、
細かい表情の変化が雄弁で退屈させない。

一カ所だけ「私ってお金になるのね」という原作にないセリフが入っていた。
「椿屋のさっちゃん」として居酒屋で働き始めた妻が、
初めて自分で稼いだ現金を手にしてこう言うのである。
私は自分が書いた「ヴィヨンの妻」論でこの場面を強調したので、
「なかなかわかってるやん」などと悦に入っていた。

さて、太宰の分身とされる夫の「大谷」だが、
どなたかが新聞の評で「夫」である大谷があまり魅力的でない、と評しておられた。
だが、私はそうでもないと思った。
  ①仕事ができて
  ②それでもおごらず
  ③むしろ苦しげで
  ④妙に素直に女に頼るところもあり
  ⑤人と交際するのが実は苦手で
  ⑥他人を怖がりつつ無謀なことをしてみたりして
  ⑦それでいて他人の評判を気にする気弱なところもある
と属性を列挙してみるとけっこうツボの男ではないのか?!と思ったりして。
それともこれって単に私の趣味か?


もう一つの「ヴィヨンの妻」は、
NHKアナウンサー山根基世さんの朗読されたCDである。
友人が絶賛していたので借りてきたのだが、
知性と訓練に裏打ちされた朗読、感情を必要以上に表に出さないところなど、
原作と非常に合っていて美しい。
耳で聴いていると読んだときには気づかなかった言い回しなどにも気づかされ、
あらためて、太宰の中では秀逸な小説だなあ、と思い返したことであった。

小説の朗読は好きでiPodに入れて聴いたりしているが、
声自体に安定感があってずっと聴いていたいと思う人は少ない。
変に特徴のある声も、読み手の身体ばかり脳裏に浮かんでだめである。
感情をむやみにこめられたら邪魔だし、
役者の技術を競うように読まれてもうっとおしい。

山根さんんはアナウンサーであって役者ではない。
あくまで、主役は小説、自分は透明な媒介、
という思いがおありなのだろうと思う。
その控えめな決心が快い。
考えてみれば日々のニュースの主役はコンテンツであるから、
ニュースを伝える人間の突出した個性はむしろ邪魔である。
よく考えてみれば当たり前のことだが、あまり気にかけてはいなかった、
アナウンサーという職業のプロ意識を見た気がした。

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September 06, 2009

「花と兵隊」を観る


第二次大戦後のアジアでの未帰還兵、とくれば、
真っ先に思い浮かぶのは「ビルマの竪琴」だろう。
子供のころはなんの疑いもなく読んだ「学校推薦図書」だったが、
日本語戦後文学研究者になって読み返すと、これがまた、
なんとも後味の悪い小説である。

子供向けに書かれているとはいえ、いやむしろ子供向けだからこそ、
偏見に満ちた紋切り型やご都合主義が露骨に現れる。
作者竹山道雄が従軍経験がないとか、ビルマを実際に訪れたことがない、
というのは、この小説の問題点としてよく指摘されることだが、
小説にとってはそうした作者の経験の欠如は、実のところ重要な問題ではない。
夏目漱石が猫になったことがないからといって、
『吾輩は猫である』の文学的価値は下がらないのである。

問題はむしろ、僧になって日本の死者だけを選択的に弔うという主人公を、
圧倒的に正しい存在として描き出す、その筆使いである。
主人公水島は、日本という地と決別してビルマ人の僧となることを決意した、
と一方で言いながら、その実、その選択的行為によって日本兵であり続ける。
ビルマ人の僧形をしたそのような日本兵は、現地と深い関わりを持ちようがない。
しかし、遠い異国に残る主人公の決心は、
「はにゅうの宿」のメロディーにのせてドラマチックに演出されることによって、
英雄的行為として手放しで称揚される。
そしてそのことの是非はおそらく今でも問われないままである。


未帰還兵へのインタビューによるドキュメンタリー映画、「花と兵隊」。
(渋谷イメージフォーラムにて公開)

ビルマ人と敵対する山岳民族カレン族に保護された人。
堪能な中国語で中国人コミュニティで暮らした人。
車両整備の会社を起こして後にトヨタのアジア進出の一翼を担った人。
ポンプの技術を生かして現地の農業に貢献した人。
さまざまな土地を巡り日本兵の遺体を集めて埋葬した人。

この多様性は、それぞれの人が持っていた技術や運、
性格などによって生み出されている。
そしてどの人も「異国に残る大きな決心」などしていない。
人生の中で小さな選択を次々に重ねていった結果、
ここに流れつき、そこに受け入れられ、共生してきた人ばかりである。
餅つきのような小さな日本の習慣が、村の人々に受け入れられているさま、
家族を伴った日本人同士が現地語で会話するさま。

「そう、暮らすってそういうことなんだよな」


撮ったのは若い青年監督である。
彼は、無造作に画像の中に映り込む。
画面の中の彼は、自分が聞いている話が一体どこへ向かうのか見当もつかない。
戸惑いを無防備にさらしている。
だがそれゆえに、彼には決まった地点へ話を持っていこうとする気負いが感じられない。
それが私には快かった。
どこまでも相手のことばに身を委ねて行き着く先を見定めようとしているように見えた。

もちろん、戦争の激戦地での話であるから、暗い闇も見え隠れする。
だがそれにもこの青年監督は臆することもなく、かといって、
そこをセンセーショナルに取り上げることもなく、
相手の今の生活とその闇を公平に塩梅しようとしている。

「そうだね、相手の話を聞くってそういうことだよね」


インタビュアーの中で最もフィルムが使われていたのは、
100歳近いブラジル移民だったという元日本兵の老爺であった。
一度も離れたことがないというカレン族の奥さんと、
多くの子供、孫、ひ孫、そして無償で家を提供しているという、
避難民の家族たちに囲まれて、彼の顔は穏やかだった。

彼が奥さんと一緒に自分の墓の場所を決めに行く場面がある。
眺めがいいその場所を死後の住処に決めた彼のことばが忘れられない。
ここなら、お前達がいる村が見えて、その向うに日本があって、
その向うにブラジルがある。
みんな一つの円の中にあるんだ、だからここがいい。

「そうだね、そんな風に考えると、いいね」


テーマは同じでも、「花と兵隊」は「ビルマの竪琴」の対極にある。
重苦しい映画だろうと思っていたのに、
私はほとんと清々しいような気持ちで夜の渋谷に出た。

青年監督の師である今村昌平監督が撮った未帰還兵のドキュメンタリーがあるという。
続けてみてみようか、と思う。

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June 05, 2009

落語の「ら」


昔、関西に「らくごのご」というテレビ番組があった。
笑福亭鶴瓶さんと桂朝丸(現ざこば)さんが観客から言葉をつのって、
その言葉を入れ込みながら即席の噺をするというもので、
「ご」は「語」であろう。
即興芸だから落語の「落」の方はなかったりする。

父親が気に入ってよく見ていたが、
私は朝丸さんがいつも器用に噺を作れず四苦八苦するのを見るのが苦しくて、
あまり好きにはなれなかった覚えがある。

鶴瓶さんのうまさとは対極にあった朝丸さんの不器用さも、
言ってみれば興のうちなのであろうが、
一生懸命な失敗を楽しんでいるみたいで、私の性には合わなかった。

(同じ理屈で私は「初めてのおつかい」みたいなのもあまり好きではない。
こういうものは最後に困難を乗り越えるところがいいのだろうけれども、
そこまでの経過を傍観している自分の位置がどうも私は好きでないらしい。
「らくごのご」はそんな予定調和すらないからひたすら私には苦しかった。)


ともあれ、これが極めて貧弱な私の落語経験である。
練り込まれた芸としての古典落語などあまり興味もなかった。
テレビで聞いたことあるのは米朝と枝雀くらい。
そんな私の生活に落語を取り込んでくれたのは、
iPodであり、Podcastであった。

テレビなどに露出がない数人の若手/中堅落語家さんたちによる、
古典落語のパフォーマンスを手にいれて聞くようになったのである。
声そのものがよい人、枕がうまい人、すぐ噛む人、
流暢だけどあんまりおもしろいとは思えない人。
どれもそれなりに味があってよい。

その中に私の好きなお声の方がいて瀧川鯉橋さんと言った。
ネットで調べてみるとその方がゲストで呼ばれている会があったので、
切符を買い求めてみた。

初めてのライブ落語。行ってみるとメインは桂都丸さんであった。
お名前は知らなかったが、お顔は関西のテレビではよくお見かけする。
だみ声ながら芸は素晴らしく、なんとも言えぬ間があって、
関西の間が大好きな私はけっけけっけ笑い通しであった。


さて、中入りがあり、次はお目当ての・・・あり?
瀧川鯉橋さんじゃねえじゃん!
なんと私が購入した会のゲストは、
鯉橋さんのお師匠さんである瀧川鯉昇さんだったのである。
後で知ったところによると、このお師匠さんはなかなか有名な方らしく、
いぶし銀の芸だという評判であった。

たしかに派手なところはないが、
要所要所で毒の利いたせりふで「くすっ」を誘発するその芸には
感嘆させられた。
英語で言うならdry witというやつに近いか。
家に帰ってさっそくいくつか購入したほど気にいった。
めちゃくちゃ愉しかったのだから、「終わりよければすべて良し」である。


自分のポカを正当化するのもどうかと思うが、
そのおかげで、一つ世界が広がったじゃないか。
おっちょこちょいでもたまにはよいこともある。

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March 07, 2009

『春琴』@世田谷パブリックシアター

一秒として退屈せず。

原作の力量に、演出、装置、俳優陣の力量が見事に釣り合い、
それはもう、奇跡のような舞台であった。

谷崎が複数の言語を縦横無尽に操って織りなす、
異なった時空間を観客にすべて体感させる演出。

最小限に押さえられた装置が、その自由を担保し、
文楽人形の、本質的なフェイクさと奇妙なリアルさを、
深津絵里の声が引き出す。

これほどまでに繊細で知的な『春琴抄』の解釈を私は知らない。

『春琴抄』をお読みになっていてまだこの舞台をご覧になっていない方、
なんとか、なんとか切符を手に入れて、
世田谷パブリックシアターに駆けつけられよ。

(演出:Simon McBurney、主演:深津絵里)

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January 19, 2009

めずらしく映画評(長いよ)

■Freedom Writers (主演ヒラリー・スワンク、監督ラグラベネーズ、2006年の作品)

ロス暴動直後のカリフォルニア・ロングビーチにあるとある高校。
黒人、ラティーノ、アジア系、白人それぞれの人種が小さなグループを作り、お互いに抗争を繰り返している。ドラッグと銃が蔓延するその地区でほとんどの生徒たちは文字通り生き抜くことに必死だ。新米教師のエリンは、教師自身が彼らを見捨てているのを知り、彼らに共に人間らしく生きることを教えようとする。彼女は彼らに一冊のノートを渡す。彼らはそこに自分の物語を書くことで、自分を見つめ直していくだけでなく、お互いを理解しあってゆく・・・

■観るきっかけになったもの

私は基本的に映画というジャンルに対して腰が引けているのだが、
今回見る気になったのは、
私が戦後直後から50年代前半にかけての生活綴方/記録運動に興味を持ち、
『山びこ学校』についての論文を書いたことを知る友人が、
作文教育を題材にした映画としてこれを教えてくれたからであった。

文章を書くこと、それも自分の日常をありのままに綴り、
それを読み合うことによって弱者たちは自分たちの「声」を手に入れ、
連帯の方法を学び、自由のための闘争を開始する。
なるほど、まさしくアメリカ版『山びこ学校』。
かけ声はウツクシク、そして極めてウサンクサイ。 

■ウサンクサイこと、その1 <日常をありのままに綴る>ことを、
生徒全員が一冊のノートを渡されただけで全員できてしまう不思議

「自由に自分のことを書いてごらんなさい」と言われて、
途方にくれた経験を皆さんはお持ちではないだろうか。
作文に書いて他人に見せるべき何かが自分の日常の中にあるとはとても思えず、
いったい何を書けって言うんだよ、と毒づいた経験を。
日常とはそこから切り出すべき何かがないほどのっぺりしているからこそ、
日常なのだ。

それを書くべき何か、他人に見せるべき何かとして、あえて選び出し、
場面として切り出し、手持ちのボキャブラリーで紙の上に再現する困難。
つまり、<日常をありのままに綴る>ためには、
そのような選び出しを行う眼を備えていることが必要であり、
「場面」にまとめるための文学的素養が必要であり、
少ないボキャブラリーをフルに使う表現の訓練が必要だ。

(こういう訓練をされておらず、またそんな訓練をされることに何の関心もない、
現代のワカモノの文章が、
そういう訓練を受けて書いている人間にとって
いかに理解しづらいかは、
mixiでワカモノたちが書く文章を見てみればよい。)

もし、この学校の生徒たちがこともなげにこれらをやってのけたのだとすれば、
それはもう、アメリカの初等/中等教育の勝利以外の何者でもない。
彼らはすでに素晴らしい教育を受けて来たのだ、と言わねばならない。
もし、この映画が本当にアメリカの公教育の荒廃を訴えたいのであれば、
彼らがこの「表現」方法/訓練を手に入れた経緯こそを描かなければならないだろう。

■ウサンクサイこと、その2  教師が生徒の作文に朱を入れる場面が
一つも出てこない不思議

これは「その1」と表裏一体なのだが、
生徒/学生にものを書かせて教育しようと思った教師は誰でも、
かならず一度はその大変さにため息をついた経験があるはずだ。

時間がべらぼうにかかる。ほとんどが朱を入れるための時間である。
あがってくる作文が(書き手の劣悪な教育環境にも関わらず)
手を入れる必要がないほどワンダフルであるというよーな希有な場合はいざ知らず、
たいてい、「始めー真ん中—終わり」という物語的構造を教え込むだけでも大変。

というより、表現の訓練とはまさに、教師の「朱入れ」によって行われる。

しかもこの点、教師が白人であり、ブルジョワ中産階級であり、
チシキ人である場合には、さらなる問題を提示することになる。

朱入れは、表現指導であると同時に思想指導である。
『山びこ学校』の無着成恭さんも、そのことには百パーセント自覚的だった。
作文は生徒と教師の合作とまで言い切っておられたからだ。
生活のなかの何に注目すべきか。何を問題としてえぐり出すべきか。
その目を持たせるのが教師の力量であり、
それは教師個人の思想の方向性を反映する。

そのような機能があるからこそ、作文は戦時中には皇民教育の一環として、
敗戦直後には民主主義教育の一環として重要視されたのである。

「朱入れ」を描かないというのは、
それがイデオロギー教育であることを隠蔽することに他ならない。

いや、イデオロギー教育であることそのものが悪いと言っているのではない。
教師であるならば、自分の「思想」(それがマルクシズムやらナショナリズムと言った
名指しできるものではなくても)を伝えたいと思ってしまうことは、
ほぼ避けられないわけだし、
何よりも「書くこと」を通じて学べる(learn)ことは、
自分が知らないうちに学んでしまった思想を、
意識的に解除(dislearn)することができるというところにあるのだから。
弊害と利点は表裏一体である。

問題はそれに自覚的か否か、その利点と弊害の両方を意識しているか否か、
というところにある。

ましてや隠蔽するなど、言語道断。

■ウサンクサイこと、その3  人種間闘争だけがあり、
階級間の問題はまったく不問に付される不思議

この映画において描かれているのは低所得階層内での人種間連帯だが、
決してアメリカ全体の社会構造に革命をもたらす方向には行かない。
行かないどころか、極めて保守的な構造を最終的には維持している。

例えば、ユダヤ人はホロコーストの犠牲者としてのみ描かれる。
なにしろ、低所得者層の人種的連帯の鍵となるのが、
「アンネ・フランクの日記」なのだから。
いかにもイスラエルびいきのアメリカ丸出し。

当のユダヤ人はアメリカの富裕層の中心的存在であるってことには、
どうやら登場人物の誰もがお気づきでない様子。
低所得者層内での人種的連帯の重要性に異議を差し挟む気はないが、
それが白人教師によって思想注入されており、
そうされていること自体が隠蔽されており、
おまけに階級構造そのものは温存されている、となると話は別である。

「自発性」だの「自由」だのという近代的価値が声高に言われながら、
実は保守構造の温存がしっかりと計られているお気楽ムービー。

同時に<書くこと>と<自己表現>をめぐる、
現代のユートピアの陥穽を余すところ無く伝えてくれる映画でもあった。
勉強になりました。

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April 27, 2008

オマージュの作法

"Imitation is the sincerest form of flattery."
(模倣はもっとも真摯な褒め言葉)


飛行機の機中でしか、はやりの映画は見ない。
座席に長時間拘束されていて、
小さな画面、かつ劣悪な音声、だが無料。

こういう環境でなければ「椿三十郎」のリメイクなど、
見る気にはなろまいさ。

だって、織田裕二。
だって、トヨエツ。

どうやったら失敗せずに作れるのか、
見当もつかぬ。

興行収入はそこそこ見込めるだろうが
(後で聞いたところによればそれもコケたらしい)
監督にとっても役者連にとっても、
ハナからわかっている負け試合だ。


食事をはさんで、二回に分けて見た。
まったく予備知識なく見たので、
脚本も場面の構成も黒澤そのままとは知らず、
しばらくそのことを自分の中で了解するまでに、
時間がかかったのである。

前半は、イライラしながら見た。
織田の一挙手一投足が気にいらぬ。
へらへら、ちゃらちゃらした三十郎だ。

三船の荒々しさ、乱暴さ、
それこそ「抜き身」の「ぎらぎら」はいったいどこへ行ったのだ?
台詞一つ一つに、三船の声が重なって聞こえ、
織田の動きに、三船の動きが呼び起こされる。

妙にスタイリッシュなのも気にいらぬ。
三十郎は薄汚れていなければならぬ。

だいたいさ、リメークなんだからさ、
台詞の解釈を変えるとか、場面のアングルを変えるとか、
なんとでも仕様があるだろうにさ。


後半は、そんな風に作った作品だ、と思って見た。

なるほど。要するに、オマージュなんだな。
黒澤の「椿三十郎」が好きで好きで、
そのままをコピーするためだけに作った映画なんだな。

そして自らを劣化コピーとすることで、
観客にはオリジナルの素晴らしさを印象づけるための、
ただそれだけのために捧げられた映画なんだな。

確かに、これを見るとオリジナルをもう一度見ずには
いられなくなる。


たしかにこれもオマージュの一つの方法なのだろう。
寸分違わぬコピーを作るということの、
技術的な難易度は私にはわからない。

だが、それを役者や他の技術者たちに理解してもらうのは、
なかなか大変なことだったのではないか、と推測する。
おそらくだからこそ、
「寸分違わぬ」にはなっていない。

少しずつ、いろんなところに、「オリジナリティ」を誇示したい、
欲望のようなものがほころびを作っている感じがした。
それが監督のほころびなのか、
それとも、さまざまな人々のほころびが積み重ねられた挙げ句の、
集合的なほころびなのか、
それも私にはよくわからぬ。

だが、結果的に作り出されたものは、
中途半端なコピーだったように思われる。

オマージュはその作法が、なかなかに難しい。

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February 19, 2008

「アジア人」はどこじゃ?


今週のあたまから「CSI: New York II」 が地上波放送開始である。

CSIには元祖ラスベガスのシリーズと、
最近人気急上昇のマイアミのシリーズ、
それにこのニューヨークのシリーズがある。

どれにもそれぞれ個性があっておもしろいし、
一話完結型だからだらだら見てしまう危険がないし、
(「24」はイカンです、一気に見ちゃいたくなる)
笑いによって緊張がほぐされる瞬間、
いわゆるcomic reliefがあって見ていて疲れない。


だけど、私には一つ不満があった。

どのチームにもかっちょいいアジア人のメンバーがいないのである。
アメリカのチームものには、
「女」と「アフリカ系アメリカ人」が必ず入るというのがお約束である。

それ以外は設定される地域によって、人種構成が変わる。
マイアミシリーズにコロンビア人を入れる、とかね。

ところが、アジア人はラスベガスに一人だけで、
それも準レギュラーで露出度は大変に低い。

(Archie Kaoという中国系の俳優さんで、
端正で優しげなお顔立ちがrichicoさんの好み。
もっと激しく露出してほしいです。
プロデューサーのブラッカイマー氏、ご検討ください。)

特にニューヨークはアジア人人口が多いんだし、
アメリカの有名大学の科学系学部では、
すでにアジア人は「少数派」扱いしてもらえないほど、
多数派になりつつあるこのご時世。

科学もののドラマにアジア人がいても問題はあるまいに?


「なんでアジア人がいねんだよ?」という反応は、
翻訳すれば「なんで(私と同じ)アジア人がいねんだよ?」という反応である。

日本にいればほとんど意味をなさない「アジア人」という括り。
そこに入れば中国系アメリカ人俳優は、
妙な具合に私に近しい存在となる。

アジア人という括りに自分自身を入れる習性は、
長いアメリカ生活の遺産である。
この中国系アメリカ人俳優の身体に(黒い髪に黒い眼、扁平な顔!)
アメリカという国で自分の身体がどう位置づけられていたかを、
私はいまだに投影している。

テレビドラマを見て、
白人がいて黒人がいればアジア人もいるべきだろう、
と思ってしまう習性も、
浅薄なアメリカのマルチ・カルチュラリズムに
浸潤されている証拠である。

でも、そういう感覚が悲しいほど欠如している日本の
ドラマ・ウォッチャーたちを見ていると、
それはそれでなんとなくいらいらしてしまう。

あれもこれも、アメリカ生活の遺産である。


CSI: New YorkIIを何話か見たところで、
監察医がアジア人俳優になっていることを発見。
ハリウッド映画では、よく見かけるアジア系の俳優さんである。
ベトナム人になったり、中国人になったり、
日系になっていらした作品もあったのではなかったか。
かなり使い回されている印象の強い俳優さんだ。

今回は何系の役どころであろう。

使われなかったら使われなかったで文句言う。
使われたら使われたで文句言う。

うるさいこっちゃ。

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April 28, 2007

『写楽考』考


シアター・コクーンで『写楽考』を観る。
堤真一、七瀬なつみ、高橋克美、長塚圭史、西岡徳馬、キムラ緑子、
とまあ芸達者が揃い踏みの、仕掛けも豪華に違いないお芝居で、
わたしたちはとても楽しみにしていた。


しかし、残念ながらその期待は見事に裏切られてしまった。

たしかに、歌舞伎風の宙吊りあり和太鼓ありの華やかな仕掛けだし、
役者も役をきちんとこなしており、特に色気匂いたつキムラ緑子は、
ため息が出るくらい素晴らしかった。

問題があったのは、おそらく脚本である。
堤演じる写楽と長塚演じる歌麿の芸術観の対立が、
劇の基本構造を成しているのはまあいいとしても、
この対立構造は最初から最後まで圧倒的に写楽優位に描かれており、
歌麿は可哀想なくらいの添え物。

対立構造としてなにかを描くとき、
最終的にどちらか一方を称揚することになるのは当然なんだが、
対立項が「対立している」とはいえないくらい弱ければ、
称揚されている方の強度が逆に下がってしまうのもまた理の当然、
要するに、最初から勝負の決まっている一方的なゲームは、
退屈なだけでなく、強い方の価値も下げてしまう、ということだ。

それが一つ。


もう一つ、もっと大きな問題がある。
メインになっている写楽の芸術観が、
これまた徹頭徹尾陳腐なものなのである。

「ありのままの自分を出し切ったときに、
その人の芸術は見るものの心をもっとも強く打つ」

こうした芸術の捉え方は、
絵画・音楽・文学をめぐって生産される質のよくない言説を毒している、
いわば紋切り型の芸術センチメンタリズムであり、
もっと言えば芸術家ロマンティシズムであり、
何か素晴らしいことを言ってるようで、その実何も言っていない。

「ありのまま」ってなに?「自分を出し切る」ってどういうこと?
「自分を出し切っている」かどうかはなにで判断するの?・・・
なんていう反論さえすでに陳腐なものになっていて、
こうやって書くのも嫌なくらいなのに、
それを延々と2時間に渡って、事実上なんの対立項もない状態で、
繰り返し聞かされる身になってみよ。

ついでに、『写楽考』的芸術観は近代的な価値観なので、
江戸時代にはたぶん存在していなかったはずで、
これもまた江戸時代には絶対存在していなかったと思われる、
「自己愛」なんていう<ことば>がぽんぽん飛び出してくると、
近代的価値観について多少お勉強をしている人間にとっては、
かなり興ざめなものであるということも付け加えておこう。


もちろん、今の価値観をなんらかの形で投影しなければ、
今の観客に受けないのだから、歴史的考証が危ないからといって、
それ自体が悪いわけではないし、そういう形の傑作もたくさんあるけれど、
要はそれをわかってやっているか否かであり、
どうもこの脚本の作り手はそのへんのところが怪しく、
この芸術観を時間を越えた普遍的なものと考えているじゃないか、と思える節がある。

べったりと近代のあざがついている枠に無理やり時代錯誤なものを押し込んで、
それがあたかも昔からあるかのように見せてしまうやり方は、
センチメンタリズムとロマンティシズムの常套手段だったのだから、
これまた「陳腐」と言われても仕方あるまい。


ああ、文句がもう一つあった。

芸術家の道を誤らせる悪女 vs 芸術家を支える聖女、という対立も紋切り型。
その悪女が性的に危険で、聖女は処女というのもパターン通りで退屈。

自我が肥大化した芸術家を支えて自己犠牲を払う女、というのも、
刺身のツマみたいによくあるパターン。
退屈。


矢代静一のもとの脚本は、かなり冗長なものらしく、
それを今回演出の鈴木秀勝がいろいろとちょん切ってすっきりさせたのだという。
私はオリジナルを見てはいないが、
もしかしたらオリジナルはもう少し型を崩す雑多な要素を含んでいたのかもしれず、
その「雑多な要素」こそ、むしろ肝だったのかもしれず、
「すっきりさせる」のもやりようが難しいと思わせられた。

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April 14, 2007

しばゐけんぶつ


「芋たこなんきん」(NHK朝の連続テレビ小説)が終わって、
なんとも淋しい朝を迎えるようになっていた。
しかし、今日はそれが終わったおかげでできる贅沢が待っている。

藤山直美(1958-)のお芝居を新橋演舞場で見るのである。
仕事の掛け持ちは決してしないことで知られる藤山直美、
テレビの仕事が終わった直後に稽古に入ったに違いない。
出し物は直美の父、藤山寛美との親子共演で話題になった、
『桂春団次』(1962年、NHKのテレビ番組)を見る。

春団次役は藤山直美が「世界で一番セクシーな男」と
絶賛するジュリー、つまり沢田研二(1949-)だ。
ジュリーの全盛期、1970年代に高校生だった私も、
若き日の彼を見て「男の色気」なる言葉の意味を初めて理解したのだった。


10時半に友人と待ち合わせて新橋演舞場に駆けつければ、
すでにオバサン・オジサンが長蛇の列となっている。
今日はいつもの「観劇」ではない。
昔ながらの「芝居見物」である。

「観劇」ならぬ「見物」には何が不可欠か。
弁当である。
幕間に「弁当」を食さねば、
「見物」という<ことば>で表現されるところの文化体験ではない。

地方からバスでやってきて、「幕の内弁当」を幕間に食べ、
ビニールの入れ物に入った熱いお茶を飲み、
べちゃくちゃとしゃべるための、11時開演という時間設定だ。

もっとも、現代演劇に慣れた我々、
さすがにそこまで「見物」文化に金をかける気は起こらず、
ちんまりと詰め合わせられたおにぎりを劇場の外で買う。
850円なり。そいでもってペットボトルの十六茶。150円なり。


花道を右に見て、左の桟敷席のすぐ横。
前におばちゃん、横におばちゃん、後ろにもおばちゃん。

芝居始まりの10分は、法善寺と書かれた舞台の上を
端役たちが埋めてにぎやかしのコンテクスト作りをする。
おばちゃんたちが遅れてもいいように、だ。
そのうち花道にライトが当たり、掛け声がかかって真打登場となる。

ちゃんと花道の左手にも流し目をくれ、お値段分のサービス。
お目当ての藤山直美は、アドリブこそほとんどでなかったが、
父寛美を彷彿とさせる間の取り方で魅せてくれた。

昔から寛美のアドリブに舞台上で笑い転げてセリフをとちることで
有名だった小島慶四郎も、ちゃんとセリフを間違ってくれたので、
私は懐かしさに涙がちょちょぎれそうであった。

スローモーションやコマ送り、見得など、随所に歌舞伎の手法が入る。
観客に拍手や掛け声(実際にかける人はいなかったけれど)の場所を
教えてくれる。
今のテレビが無粋なテロップで教えてくれるツボを、
きちんと示してくれる洗練された技法が伝統的にあったのだ、
ということがよくわかる。


一回の芝居で一万円を軽く超える出費であるうえ、
幕の内やおやつ、移動代などを加えると「芝居見物」は贅沢品である。

お弁当はケチった我々も、結局その夜は仕事にならず、
飲みに出かけたので決して安い娯楽ではない。

おまけに、ノスタルジアに浸された私は、
アマゾンで『藤山寛美十八番DVDBOX』を購入してしまった。

いやはや、高くついた「芝居見物」であった。

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