日記(1月後半)
■今日は誕生日なり。でも大学院の最後の授業の日でもある。翻訳論の最後には、水村美苗『日本語が亡びるとき』について言及しておかねばならない。Spivakについても。私は、有色人種で女性だからという理由で書き手を称揚したりしないが、書き手の頭の程度が高いときは、有色人種で女性の書き手を少々ひいき目に見る癖がある。それも必要以上に威勢がいいわけでなく、どちらかというと控えめに毒を飛ばす年かさの書き手が好きである。デリダの映画にも行く予定だったが、授業が終って打ち合わせをしているうちに30分近く遅れてしまった。諦めて神楽坂に戻り、大久保通りの中華料理やさんで一人チャーハンと野菜スープをいただく。優しいお味、優しい接客。お誕生日なのでフンパツ、杏仁豆腐を追加。
■シラバスを書いたり、手首の治療のための病院を予約したり。散乱した授業の資料などを片付け、掃除機などかけているうちに待ち合わせ時間に。水村美苗先生と久しぶりのデート。大学院の2年目に習ったのだからもう長いお付き合いであるが、いまだに会うとなると緊張する。懐石風のしっかりしたお料理を出す和食やさんへご案内するつもりが、駅で待っても待ってもいらっしゃらない。予約の時間に遅れることを言っておこうと店に電話をいれたら「もうお連れさんいらしてますよ」と言われ、息せき切ってお店に向かう。「あの、先生、駅の出口って申し上げたつもりだったんですが」「あらー、そうだったかしらー、ごめんなさーい!」と、相変わらずの天然ぶり。若い板前さんを前にお料理を次々たいらげつつ、家族のことやボーイフレンドの有無など近況をご報告す。御本の話など聞きたいこともいくつかあったが、実際にお会いするとほとんどそういう話にならないのもいつものことである。「あなた、いくつになったの?」「は、ついこの間46歳になりました」「で、どんな感じ?」どうやら、中年を過ぎた独身の女性近代日本文学研究者の、人生に対する感想をお聞きになりたいらしい。結局ガールズトークならぬオバチャントーク3時間弱。またあと数年このような機会はないのだろうな。
■フレッツ光を導入。機械オンチには気が遠くなるような情報量で、もう理解しようという気持ちさえ持つことができない。つねづね学生たちを見ていて、なんで自分で情報を整理して取り込もうという気概がないのだろう、と思っていたが、なるほど整理の引き出しが無い状態で大量の情報を流されるとモチベーションが失われるのだな。光フレッツを入れて、学生の気持ちを知る。
■ツイッターで「文学をあえてベタに語る」ことに時間を費やす。「文学とはなにか」とか「文学研究とはなにか」という問いに答えるのには、実はかなり技術が必要で、まともに取り組むと浅薄な解答しか出来上がらないと相場が決まっているやっかいな問いである。こういうものは実際文学を研究している大学院生などが取り組んでいるだろうと思われる向きがあるかもしれないが、実際は研究のど真ん中にいて研究にどっぷり浸かっていなくてはならない人はとりあえず取り組む必要のない問いである。むしろ大学のセンセになって、勉強はしたことあるけど学問はしたことない学部生に、Introduction to Literatureみたいな科目を教える羽目になって始めて必要になって来る。あるいは、(私みたいに)経済学部で英語の先生をやりつつ「へえ、richico先生、ブンガクやってるんですか、ブンガクなんてなに研究するんですか」などと珍しがられたりしたときに必要になる。つまり、ある種の「枠」がないと答えられない問いなのである。
■11時にピアノのレッスン。シューマンのソナタ第2番の1楽章。なかなかM島さんとダブルブッキングになっていたので、私が12時まで見てもらい、M島さんが1時まで。その後3人で江戸川橋ランチに行く。オバチャントーク炸裂。午後になって調子悪し。ほてりが来る。水ばかり飲む。そしてサリンジャー死す。
■下北沢に阿佐ヶ谷スパイダース『アンチクロックワイズ・ワンダーランド』を見に行く。どうまとめたものか、まだあまり納得はしていないのだけれど、とりあえず感想を書き記すことにする。小説を書くことの喜びと苦悩についての小説。小説が書けない小説家についての小説。その身辺事情(男女関係)とともに主題化した小説。これらは小説の世界では一ジャンルを形成しているので、小説読みにとってさほど新しい主題ではない。そして、「ワンダーランド」としての巧まれた混乱も、観念的な言葉の羅列も、それなりに筋が透けてみえるので、特にストレスが溜まるというほどではない。むしろそれ位の知的努力を強いられる方が私は心地よい。開演直前に長塚氏ご自身がうしろのパイプ椅子に静かに滑り込んで来られたので、よけいにこれを「私小説」的に消費する欲望には駆られたのだが、少々物足りなかった点があるとすれば、やはり「既視感」か。つまり、「ああ、小説でよくあるパターンだな」と思ってしまったのである。同じ題材を扱うことが問題なのではない。同じテーマであっても、演劇だからこそ新鮮というところがもう少しあれば、こうした既視感としては感じなかったのかもしれないのかなと思ったのである。長塚氏の代名詞とも言われるbloodyな演出が、小さな箱に詰められて「プレゼント」として舞台上に現れたときには、なかなか粋な所作だと思ったが。嫌味ともファンサービスとも取れる両義性があってね。
