上級演習関連

February 16, 2008

「ゼミ」雑記(3)


相変わらず、毎朝「ちりとてちん」を見て号泣している、
richicoでございます。

最近プロットの関係上、号泣率が上昇している。
この前なんか、朝の9時半に大学に行かねばならず、
必然的にフルメイクでテレビを見ていて、
必然的にぐじゅぐじゅになってしまい、
必然的に粉をはたき直したほどである。


で、ゼミの話。

実は「ちりとて」の中核にある「徒弟制度」と、
ゼミは共通項があるということが言いたかったので、
連ドラの話から始めたのである。

口承文芸である落語の技は、
「お稽古」と呼ばれる対面式の修行で初めて伝達される。
カセット・テープのような録音機械はもとより、
視覚情報も同時に伝えられるビデオのような録画機械ですら、
伝達されることの叶わない「なにか」が、
この制度によって伝達される。

さらにそのためには、「師匠」に技の卓越と同時に、
人間的な魅力がなければならない。
この「師匠」のようになりたい、という欲望がなければ、
技の伝達は効果的になされない。

単なる「知識」ではない、より包括的な「技」の伝達。
人間としての全体性における、より効果的な「技」の伝達。

これに私は興味を持った。


大学院に行った方はどなたも覚えがあるように、
大学院は徒弟制度に非常に近い。
いわゆるコースワーク制(必要な単位を授業形式で
とりためていくシステム)を導入している北米の大学でも、
博士論文を書く段階における「師匠」とのつながりは、
かなり緊密なものだ。

この人と思う師匠のところに弟子入りをし、
師匠の家に住み込みながらそこで年季奉公をし、
年季が明けてもその職にある限り関係性を保つ。


だが、大学の通常の授業ははそのような関係性が作られる場所として、
もともと構想されてはいない。

大学は知識が伝達される場所ということになっており、
たしかにある意味ではそうなのだけれど、
また別の意味ではこの考え方は間違っている。

「知識」というのはすでにパッケージ化されており、
こぎれいに整備された後に配分されるものである。
それに対して「学問」とは、
パッケージ化された「知識」を溜め込むことであると同時に、
世の中の森羅万象から何をどのように切り取って「パッケージ化」するか、
というパッケージ化のプロセスそのものに関わる思考を要求するものだ。

つまり、大学が高校と違うところがあるとすれば、
パッケージ化の技を多少なりとも伝達するというところである。


他の人が何をどのように教えているかわからないので、
自分を例に挙げるしかないのだが、
私が大学で教えたいと思っているものは、
<ことば>を使ってものを考えるやり方である。

それを教えるには、私がどうやっているか、を見せるしかない。
そしてそれを模倣してもらうことによって、体得してもらうしかない。

<模倣する>と言うのは簡単だが、それを動機付けするのは難しい。
なにかの手助けが必要だ。
それが「師匠」の人間性ということになりはしないか。

「世の中の森羅万象から何をどのように切り取って「パッケージ化」するか」
と先ほど述べたけれども、
それは「人間性」という部分と大きく関わっている。

ひらったく言ってしまえば、「もののみかた」そのものである。


「ゼミ」という形式は、大学教育の中で唯一、
徒弟制度に近い性質を持っている。
ゼミ生たちは、私を師匠に選んだ時点で、
よくも悪くも私と人間性を介した関係を結んでおり、
その関係のなかでしかおこらない「技」の伝達が行われる。

だからもし「技」が効果的に伝達されていないならば、
それは「弟子」ではなく「師匠」の責任である。
「師匠」の人間性の問題である。

特に私の場合のように、専門性ということよりもむしろ、
専門家にこそならないが<ことば>に正しく敏感な人間を養成する、
という目的を持つゼミはそうである。


「師匠」としては「ちりとて」の草若師匠に遠く及ばぬrichicoさん、
ゼミに関してこのところ反省しきり。

これからも精進の日々でござる。

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February 11, 2008

「ゼミ」雑記(2)


いや、実験といったって、てぇしたことではない。

一つ目は、私を「りっちゃん」と呼んでもらうことである。
二つ目は、全員をmixiに登録してもらったことである。


アメリカのリベラル・アーツの小さな大学で、
先生のことをファースト・ネームで呼ぶのはさほど珍しくない。
だがそれは、そのような「親密さ」の指標が社会的に異なった役割を担っている、
英語という言語で構成されたコミュニティの中だから違和感がないのであって、
日本語でこれをやるとなると話はまるで違う。

例えば、私の同僚は私のことを「りっちゃん」とは通常呼ばない。
○○先生、あるいは○○さん、と呼ぶ。
同僚の中で私を「りっちゃん」と呼ぶ人は、
食事をしたりプライベートな話をする友人たちである。

もし、他の同僚ーー特に男性ーーが、
私に断りなしに「りっちゃん」と呼びかけたとしたら、
私はおそらく「むかっ」とする。
そうした呼びかけには、パブリックな領域にあるべき職場の関係性を、
プライベートな領域に無理やり押し込もうとする意図が看取されるからで、
ほとんどの場合、職場での私の立場の不利につながる。

(そういう男性に対しては、表だっては言わないけれども、
「バカにすんじゃないわよっ!」と心の中ではしっかりとそう罵倒するであろう。)

言うなれば、ゼミ生たちは「りっちゃん」という呼称を許可されることによって、
「同僚」の位置をも越えた、「友人」と同等の位置を与えられていることになる。
いわば私とプライベートな関係を結ばせられているのである。

学生ー先生という社会的役割の安定的な関係が、
呼称(<ことば>!)によってどう変化するのか。

先生の権威は、「りっちゃん」と呼ばれることによってなくなってしまうのか。
ゼミ生と「りっちゃん」は、「友人」になってしまうのか、それとも・・・?


結果は予想していた通りであった。

彼らは大変居心地が悪そうであった。
裏で言うならともかく、面と向かって言わねばならないのである。

最初は一生懸命呼んでくれていたが、
そのうちだんだんと私はあまり呼ばれなくなり、
卒論を書く最終段階になると、いつの間にか「先生」に戻ってしまった。

「先生」と呼ぶのが自然なところで「りっちゃん」を押し付けられるとどうなるか。
「りっちゃん」と口にのぼせるたびに、
実は意識の中では「先生」が同時に呼び出されてくることになる。

「先生」と呼ぶのは習慣だから、ことさらにそれが意識されることはない。
だが、彼らは「りっちゃん」と呼びかけることによって、
私を「先生」として逆に強く意識するハメになったのである。


「りっちゃん」という呼称は、かくして私の「先生」性を強化した。
<ことば>の威力とはスゴイものである。
そして、一筋縄ではいかぬものだ。

いやいや、断っておくけれども、
私は決して自分の「先生」性を強化したくてこの実験をしたわけではない。
教室内における私の権力は、いかに私がそれに対して居心地が悪くとも、
なくすことができないものだし、
教育効果から言っても完全になくしてしまってはいけないものだ。

それならば、遊んでしまえ。
せっかく<ことば>ゼミと名まえをつけたのだ。
<ことば>を使って遊んでしまえ、というわけだったのだ。

私の「遊び」に付き合ってくれたゼミ生諸君、ありがとう。
権力振り回して呼び名を強制してごめんね。
でも楽しかったよ。

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February 04, 2008

「ゼミ」雑記(1)

大学の教師生活も10年になろうというときになって、
初めて担当した「ゼミ」というもの。
通常の授業とは違うこの制度の可能性について、
ちょっと書き留めておくことにした。


どうやら「ゼミ」は、日本の大学特有の制度らしい。

私が2年間ほどいたアメリカのリベラル・アーツ・カレッジは、
本当の少人数教育をやっていたが、
通常の演習形式の授業と区別されるような「ゼミ」は存在しておらず、
卒業研究も先生に個人指導をしてもらう形だった。
だから同じ先生についていた学生が何人いたのかすら、
私は知らないまま過ごした。

イギリスではチュートリアルと呼ばれる、
これも少人数の演習形式の授業があった。
だが、先生との関係性は希薄で、
学生間にもコミュニティの感覚はまったくなかった。
「アメリカ人」(制度上、私はここに入れられていた)というお客さんだったせいなのか、
と思ったりもしたのだが、イギリスの大学教育を受けたイギリス人に聞いても、
日本の「ゼミ」に相当するものはないという。

オーストラリアの国立大学教育を受けたオーストラリア人も
「日本のゼミの制度はおもしろい」とさかんに言っていたので、
どうやらオーストラリアにもないらしい。

中国や台湾や韓国やタイといったアジアの大学はどうなのか、
ヨーロッパのほかの国はどうなのか、
ちょいと聞いてみたい気がする。


日本の大学における「ゼミ」は、
まず同学年の学生同士のつながり、
つまりヨコのつながりがけっこう強烈に存在している。

もともと、数ある先生の中からその先生を選んだという意識がある上に、
飲み会だの合宿だの旅行だのといった授業以外のイベントによって、
特別なコミュニティ感覚が養成される。

それらはさらに、
就職活動という日本の大学における一大イベントによって、
実践面からも強化される。
先に就職したゼミの先輩を通して、学生は活動の詳細を知ったり、
時には直接仕事口を紹介してもらったりするのである。

特定の先生とのつながり、同学年のヨコのつながり、1年刻みのタテのつながり。
それらが合体して、「ゼミ」になると言ってよい。


もっとも、教師生活10年目にして、初めて私が担当した「ゼミ」は、
「先輩」も「後輩」もいないのでタテのつながりが存在せず、
したがって当然「就職活動」にも役には立たず、
「合宿」も「旅行」もしなかったので、お遊び的コミュニティにも発展せず、
そういう意味ではあまり「ゼミ」らしくなかったのかもしれない。

そういえば、私がむかしむかし大学生だった頃のゼミも、
あまりゼミらしくはなかった。
「先輩」も「後輩」もいなかった(と思う。もしかしたらいたのかしら?
まあ、いたとしてもそれくらいの存在だった)
誰一人として集団行動の音頭を取るタイプの人間がいなかったのは確かで、
みんなわが道を行っていたなあ。


ただ、私は自分の「ゼミ」で、ちょっとした実験を二つほどしてみた。
従来の「ゼミ」とは少し違う、新しいコミュニティができるかな、
と思ってやってみたのである。

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April 09, 2007

本日は合宿なり


といっても、ゼミ生たちが就職活動で忙しいので、
遠出はせずに大学の教室で朝から夕方までゼミをやって、
夜に飲み会をして終わろうという短縮バージョンである。


10時半に集合と言っておいたのに、
時間に行ってみると一人しか来ていない。
うちのゼミ生たちにはスロースターターが多いのである。

しかし、そのうち三々五々やってきては席に着き、
「さあ、始めますよ」とやったとたん、
すぐさま空気がきりっとなり集中し始めたのは、
さすがに4年生である。

午前中は、先学期の総括、
午後からは、卒業論文企画書の合評会をする。

空高く晴れ渡って、少し肌寒い土曜日。
大隈庭園で戸外ゼミ、という案は実現しそうにないが、
最後まで集中力が続きますように。


うちのゼミは<ことば>に関することなら何でもOKということに
なっているので、ゼミ生一人ひとりのやっていることが違う。

遠藤周作の小説における宗教を分析する予定のJ。
政治における<ことば>を研究対象にしているH。
明治・大正期の女学生言葉を調べているE。
ファンタジー小説の構造を扱うA。
英会話学校での第二言語習得を調査するS。
漫画の『ワンピース』を分析するY。
「嘘」について研究してみたいというR。
広告の分析をすすめる予定のK。

一見、まとまりがつかないように思われるが、
この多様性が実は重要な鍵である。

なんとなれば、ゼミ生たちは常に、
自分の研究対象とは違う分野の分析を聞かなければならない。
彼らがそれに対してコメントしようとすれば、
「これは自分のやっていることとどうつなげられるだろう」
とまず問うところから始めねばならない。
これが重要なのだ。

分析とは、骨組みを見つける作業である。
バラバラに見える部分部分を繋げている連結を探し出し、
表皮の下にある骨組みを語ろうとする作業である。

そして今度は、自分の骨組みと他人が見つけてきた骨組みとが、
どこで連結されているのかを見ることによって、
より大きな骨組みを探していく。

繋げることこそ、知性のみなもと。


80年代から文学研究に生じた大きな知の地殻変動は、
<ことば>の捉え方が変化したことに端を発している。

作家と作品との関係だけを云々していた文学研究は、
文学以外の研究分野においても、
<ことば>が決定的な作用を及ぼしていることに気づき、
それを研究することもまた文学なのだ、と考えるようになったのだ。

「文学」は明治初期には、文字通り「文」の「学」であった。
今、文学研究は再び文の学問になろうとしている、と言ってよい。

だから、彼らは気づいていないが、彼らがやっていることは、
ある意味で大変コアな文学研究なのである。


夕方になってきて少々疲れは見え始めたが、
みなの集中力は最後まで途切れなかった。

それは、お互いの分野をなんとか繋げようとする努力が、
5時間近くにわたって続けられたことを意味する。

またこの間、体力のないはずの私の集中力もずっと途切れなかった。
なぜなら私自身が介入しなければならない事態が、
あまり起こらなかったからだ。

そしてこれは、先学期の段階では私の助け舟なしに連結できなかったことを、
ゼミ生たちが自分で繋げられるようになってきたことを意味する。

むろん、その繋げ方はまだまだ底の浅いものだ。
形式の分析を内容の分析に繋げることもうまく出来ていないし、
<ことば>の歴史性や政治性に関してはまだまったく言語化できない。

深いところの骨組みは、もっともっと先にある。
諸君、さらなる修行をされたし。


ゼミを終了し、馬場の居酒屋に移動する道すがら、
基本的に団体行動をしない(できない?)面々は、
くっついたり離れたりしながらようやく結集。

でもね、センセイはいい感じだと思ってますよ。
べったりつかず、かといって離れず、
新しいメンバーも緩ーく包含しながらやっていけたらいいやね。

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August 12, 2006

上級演習について

8月10日くらいにアップするとお約束していた「上級演習について」です。
ちょっと遅れました。ゴメンナサイ。
これを読んで指定のレポートを書き、9月初頭の面接にのぞんでくださいな。

■ゼミの英語名はSeminar on Linguistic Expression Analysis。直訳すると、「言語表現分析ゼミ」となる。あまりスマートな名前じゃないけれど、他に思いつかなかったからしょうがない。日本語でいいなら、「<ことば>ゼミ」とでもしておきたかったところだ。

■ゼミのコンセプトは極めて単純で、<ことば>で表現されたものならなんでも考察の対象にする。いつも言っていることだけれど、私たちは<ことば>に取り巻かれている。私たちは人の<ことば>を聴き、解釈し、自分の思うことを<ことば>にして投げ返して会話している。本を読んで過去の人の<ことば>を読んで対話をすることもあるし、ブログやソーシャルネットワークに、自分の<ことば>を書き込んで表現することもある。そして、それらに感情を動かされながら生きている。だから、<ことば>がどんな風に機能するかについて考えることは、私たちの生活そのものについて考えることになるんだと思う。

■とまあ、こんな風にコンセプトは単純だが、問題はそれを分析する方法をどうやって身につけるか、ということだよ。今回私が取ろうと思っている方法は、文学作品、特に小説を分析することを通して<ことば>について考えようというものだ。「小説」というジャンルはご存知のように、<ことば>一つで虚構の世界をつくりあげる書き物のジャンルだ。会話あり、独り言あり、ストーリーテリングあり。内容だって、恋愛あり、セックスあり、悲劇あり、喜劇あり、死あり、狂気あり、国家あり。なんだってありだ。こんなに過激なまでに自由なジャンルはない。だから<ことば>について勉強するのにこれほどよい素材はない。あまり普通の人は知らないが、文学理論という名前で精緻にできあがった<ことば>に関する理論もある。

■まずは数人の小説家の言語表現を分析しながら、<ことば>が私たちに及ぼす力について考えることから始める。その間に、学生の皆さんには自分が何を分析の対象とするかについて考えてもらう。<ことば>で書かれているものなら、どんなジャンルのテクストでもいい。英語でも日本語でもいい。もちろん、小説は大歓迎。(私自身は小説が大好きなもので)要は、勉強した手法を使って自分なりの表現分析をしてみる、というのが後半のメインである。こんなものを分析してみたいというネタがあったら相談してほしい。

■Web上のシラバスではSeminar on Literary/linguistic Expression Analysisと、スラッシュで文学と言語を重ねてあるが、それはこうしたわけだ。私の中ではLiterary expressionとLinguistic expressionの間にあまり大きな垣根は作っていない。文学をやりたい人も、特に文学をやりたいわけではない人も、参加してもらえるようになっている。

■私自身については、このブログを読んでくだされば大体のところはわかってもらえると思うからもう説明はしない。学生に望むものは、<ことば>と真摯に向き合う努力、自分たちを形づくっている<ことば>に対する知的好奇心、読んだり書いたりすることをいとわない精神、というところかな。

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July 20, 2006

上級演習について(業務連絡)

次学期に榊原の上級演習(ゼミ)を履修希望する学生の皆さんへ

■Web上にシラバスがあります。読んでおいてください。
■インタビューを9月のはじめに行います。Web上にある実施要領を読んでおいてください。
■インタビュー前に提出物があります。
■提出物はこのブログの「上級演習について」を読んで
書いてもらうことになっていますが、「上級演習について」は8月10日ごろアップします。


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