「ゼミ」雑記(3)
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相変わらず、毎朝「ちりとてちん」を見て号泣している、
richicoでございます。
最近プロットの関係上、号泣率が上昇している。
この前なんか、朝の9時半に大学に行かねばならず、
必然的にフルメイクでテレビを見ていて、
必然的にぐじゅぐじゅになってしまい、
必然的に粉をはたき直したほどである。
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で、ゼミの話。
実は「ちりとて」の中核にある「徒弟制度」と、
ゼミは共通項があるということが言いたかったので、
連ドラの話から始めたのである。
口承文芸である落語の技は、
「お稽古」と呼ばれる対面式の修行で初めて伝達される。
カセット・テープのような録音機械はもとより、
視覚情報も同時に伝えられるビデオのような録画機械ですら、
伝達されることの叶わない「なにか」が、
この制度によって伝達される。
さらにそのためには、「師匠」に技の卓越と同時に、
人間的な魅力がなければならない。
この「師匠」のようになりたい、という欲望がなければ、
技の伝達は効果的になされない。
単なる「知識」ではない、より包括的な「技」の伝達。
人間としての全体性における、より効果的な「技」の伝達。
これに私は興味を持った。
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大学院に行った方はどなたも覚えがあるように、
大学院は徒弟制度に非常に近い。
いわゆるコースワーク制(必要な単位を授業形式で
とりためていくシステム)を導入している北米の大学でも、
博士論文を書く段階における「師匠」とのつながりは、
かなり緊密なものだ。
この人と思う師匠のところに弟子入りをし、
師匠の家に住み込みながらそこで年季奉公をし、
年季が明けてもその職にある限り関係性を保つ。
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だが、大学の通常の授業ははそのような関係性が作られる場所として、
もともと構想されてはいない。
大学は知識が伝達される場所ということになっており、
たしかにある意味ではそうなのだけれど、
また別の意味ではこの考え方は間違っている。
「知識」というのはすでにパッケージ化されており、
こぎれいに整備された後に配分されるものである。
それに対して「学問」とは、
パッケージ化された「知識」を溜め込むことであると同時に、
世の中の森羅万象から何をどのように切り取って「パッケージ化」するか、
というパッケージ化のプロセスそのものに関わる思考を要求するものだ。
つまり、大学が高校と違うところがあるとすれば、
パッケージ化の技を多少なりとも伝達するというところである。
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他の人が何をどのように教えているかわからないので、
自分を例に挙げるしかないのだが、
私が大学で教えたいと思っているものは、
<ことば>を使ってものを考えるやり方である。
それを教えるには、私がどうやっているか、を見せるしかない。
そしてそれを模倣してもらうことによって、体得してもらうしかない。
<模倣する>と言うのは簡単だが、それを動機付けするのは難しい。
なにかの手助けが必要だ。
それが「師匠」の人間性ということになりはしないか。
「世の中の森羅万象から何をどのように切り取って「パッケージ化」するか」
と先ほど述べたけれども、
それは「人間性」という部分と大きく関わっている。
ひらったく言ってしまえば、「もののみかた」そのものである。
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「ゼミ」という形式は、大学教育の中で唯一、
徒弟制度に近い性質を持っている。
ゼミ生たちは、私を師匠に選んだ時点で、
よくも悪くも私と人間性を介した関係を結んでおり、
その関係のなかでしかおこらない「技」の伝達が行われる。
だからもし「技」が効果的に伝達されていないならば、
それは「弟子」ではなく「師匠」の責任である。
「師匠」の人間性の問題である。
特に私の場合のように、専門性ということよりもむしろ、
専門家にこそならないが<ことば>に正しく敏感な人間を養成する、
という目的を持つゼミはそうである。
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「師匠」としては「ちりとて」の草若師匠に遠く及ばぬrichicoさん、
ゼミに関してこのところ反省しきり。
これからも精進の日々でござる。