文学とはどのような知か
科学の進歩などが広い意味での『文学の終わり』をもたらすことはありえない。科学が進歩するに従い、逆に科学が答えられない領域ーー文学が本領とする領域がはっきりしてくるだけだからである。ほかならぬ意味の領域である。科学は「ヒトがいかに生まれてきたか」を解明しても「人はいかに生きるべきか」という問いに答えはくれない。そもそもそのような問いを発するのを可能にするのが文学なのである。(水村美苗『日本語が亡びるとき』2008)
小説を読むことによっていかに生きるべきかを問う。明治の小説のなかで出会う青年たちはこういう議論をよくしている。大正の小説を読んでも、青年たちはいわく言い難い不安のために自殺したりしている。昭和の小説でも、青年たちは性に、政治に、友人関係に悩み、「人はいかに生きるべきか」について懊悩しているように見える。
しかし、彼らはみなエリートである。東京帝国大学の出身で、外国語をよくし、マルクスを原書で読み、漢語と外国語を駆使した日本語で書き、売春婦を買って文学をした。そして日本の運命を背負う知性の持ち主であった。文学はもともとそれにアクセス可能なーー経済的にも知的にも言語的にもーー少数の人々のためのものであり、万人が「人はいかに生きるべきか」を問うものではなかった。
水村美苗はそうあり続けなければならない、という。そして(古典だけではなく)日本近代文学を読み継ぐような国語教育を、日本のもっとも知性ある若者たちに施せ、という。エリート復活論である。この議論は近代日本語が達成した高みを守りたい、というあまりに作家らしい偏愛から来ているが(そしてそれは単なる主張ではなく、しっかりした知識を基盤に論理的に展開された議論でもって示されているが)、それが実際に届く波紋の範囲はいくつかの問題点に分節化したうえで検討しておく必要はある。
とりあえず、文学が「いかに生きるべきか」という問い(答えではない)を人にもたらすものであるとしよう。つまり人はそういう問いを、文学を読むという作業を通して学ぶのであるとしよう。そして、文学を読むという作業がそれにふさわしい知性と教養と叡智への探究心を持った人間に独占されることが常態になるとしよう。(これが水村の推し進めようとする理想的世界である)「いかに生きるべきか」は彼らによってのみ問われ、議論され、思考される。それ以外の人間は、こういう問いとは無縁に暮らして行く、ということである。
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